『幸せ』の向かう先
『幸せ』とは何だろう。
100人いれば、100人の。
1億人いたら、1億人の。
ひとりひとりの『幸せ』があるだろう。
同じ物を見ても、
同じ出来事に遭遇しても
どのように捉えるか、感じるかは
ひとりひとり違うので、
幸せは、自分の中にしかない。
というのは、全く持って
その通りだなとは思う。
だが、何が正常で何が異常なのかがわからなくなっている状態で、幸せ云々考えても、そこに辿り着くのは難しい。
激しい戦争のもと、殺し合いの起きるのが日常として育っていたら、その生活は、やっぱり心に身体に様々な影響を与えているだろう。
人は幸せを求め続けている。
幸せになりたい、の
なりたい先を冷静にみてみると
そこに自分が、
幸せ=と信じている物は何であるのか?
幸せの意味を、一体どのように考えているのか?
もし幸せの先にある物が、
全てお金が必要な物や事柄だとしたら。
例えばだが、お金持ちと結婚するのが幸せと思う。
それはお金があるのを幸せだと信じているのか。
それとも、お金持ちの人といると、すごくいい気分なのか。
(このいい気分が何の理由づけもなく
ただリラックスできて楽しいかどうかは、とても重要)
その基準はどこからきたのか?
純粋に感情が喜びで満ちるのか?
それによっては人生そのものが
かなり違ったものとなるだろう。
自分が心から
望んでいるものは何か?
自分のありのままでいるとは
何なのか?
友人と電話で
「なぜこんな人生、と怒りがこみあげずにはいられない」
と話たことがある。
それでも、そんなことを話せる友人が現れたことが
私の人生では大きな変化だった。
人生は過去に囚われていては進めないが、
過去を無視していても進まない。
自分が自分に正直に、
自分が好きなこと、どうしたいかを問いかけた時に、
現れてくるものは何か。
それが人にどう見えようが
何と思われようが
そんなことは関係なく、
ただ自分が満たされるもの。
うれしかったり、楽しかったり。
安心感があったり、穏やかな気持ちだったりするのは、何であるのか。
他人から
刷り込まれた基準がある限り、
自分の心で感じることは難しい。
例えだばだが、
「家族の幸せを見るのが私の幸せ。」
それは本当だろうか?
教えられた信念のレールの上にのって、
ある程度の年齢になったら結婚して、
子どもを産み、
家を買い、
家族が健康で子どもが大学へ行き、
就職することが、普通の幸せ、
と、信じているのではないか?
もちろん、
それが本当に、自分にとっても何を差し置いても
喜びで、幸せな人もいるだろう。
ここで言っているのは、
“それを喜びに感じなければならない”
と思い込んでいないか?
ということである。
自分が信じていることが、
自分の足枷となっている場合もある。
どんな人生でもいい。
誰のためでなくていい。
自分を生きる。
純粋に自分自身が幸せにむかっている場合、
むやみに誰かを傷つけるようなことにはならないだろう。
私たちの細胞に組み込まれているDNAは、
人間がこの肉体を使い、
人生を通し、幸せを体現する方向へと、
向かうようになっている。
あまりに大きな苦痛や恐怖によって、押しこめ切り離した感情のために、様々な症状や生きづらさに覆われていることもあるだろう
気づき解決するまで(癒しということかと思う)
症状や同じような現実は続く。
今、長いこと、まったく先が見えない人もいるかもしれない。
私自身、数えきれないほどの「なぜ、こんなことに」を経験してきたが、私のどこか深い部分で人の生きる力、life forceを信じているのだと思う。