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思い通りにいかない人生と『感情』

今、人生でなぜ、思い通りにいかないことがあるのか?
なぜ、苦しいことばかりが起きているのか?

誰かから教えられたことを、信じたところからそれは始まっている。

何かの教えを信じたのと同時に、自分で感じること、自分で考えることをやめてしまったのだ。

誰かの考えに従う、と選択した時、
それが自分にとって
恐ろしかったからそうしたのか、
はたまた、うれしくてそうしたのか…

ネガティヴと信じている感情も、
ポジティヴと思っている感情も、
それに執着していると、どんどん追い込まれていく。

病気も(心のも身体のも)犯罪も、暴力も、
感情の抑圧のしすぎが根底にはある。
感情はその瞬間、瞬間に感じるもので、
良くも悪くもないのに、
たくさんのジャッジメントで、
「これは良い、悪い」
「これはああで、こうで…」とやっていくと、
あるがままなんてどこにもなくなってしまう。

だいたい思考そのものが、過去の経験やデータからきているので、あるがままとは少し違うのだ。

その思考ルールは、それはそれで、この社会で生きるためには必要だけど。

インサイドヘッドという映画を観たことはあるだろうか。

映画の中で主人公のライリーが、
諸々の感情を停止してしまうシーンがある。

何も感じなければ、傷つくこともない。
なぜかそんな風に信じて、
感じないように必死になったり…

感情を抑圧しても、苦しみも痛みもさらに増していく。

ヨロコビ、カナシミ、ムカムカ、イカリ、ビビり。
その瞬間、瞬間に
怒ったり、悲しんだり、喜んだり…
今、その瞬間を感じていたら、何も残らない。

感情は本来、今自分がどう感じているかのセンサーにすぎないはず。

人が人として成長していくには、肉体、心(精神)、感情をバランス良く成長させる必要がある。

そこのバランスが取れていないと、どこかにひずみが出てくる。

身体に関することは、みんな必死に世話をする。

精神面を成長させるために、いっぱい学んで、
思考能力を働かせて、
知識や情報をどんどん入れて、
論理的思考力をこれでもか、とばかりに育てる。

しかし、感情面は置き去りにされることが多い。

何かの時に(きっと記憶にない昔にも)
感受性を麻痺させれば、
目先の痛みを感じなくてすんだこともあるだろう。

実際はそのせいで、肉体や心にそれ以上の苦しみや痛みを与えているのだが…。
感情を経験する能力は、幸せを与えたり、受け取ったりする能力と、同じなのだ。

どんどん思考は膨れ上がる。
感じる自分のマップは閉じてしまったから、もはやどこにも行けない。

自分の思考に疑いをもたないまま。
それははたして自分なのか、どうか?と疑うことはあるだろうか。

外からの、他人からの何かで生きる。
それが『自分』なのだと、自分で自分に何重にも信じこませている。

まるで独裁国家の国民、カルト教の信者みたいな状態だ。洗脳が済むと、後は自動操縦でその『自分』を生きていくので、同じような出来事が繰り返される。

本来瞬間、瞬間を生きるためには、
心でも身体でも感情を感じることが必要である。

自分が本当に心地いいことは何なのか?

そのやりたいことは、
本当にやりたいことなのか?
誰かがやってて、お金がきて良さそうだから・・
とかではないか?などなど。

自分の『感情』を感じてみよう。
何か、ウソのクリームがぶ暑く塗られていないだろうか。
ウソのクリームが特に悪いわけではない。
とても美味しかったりする。

苦しんだり、痛かったりしている状態が、
絶妙に周囲と依存しあってバランスをとり、
何かと向き合わずに済む状態においている。

痛々しい泥酔パーティに酔っ払いのひとりとして、
ずっと泥酔してそのパーティに興じたままでいれば、それは楽だし、安心なのだ(と信じている)
泥酔パーティから抜けて、目を覚ますか。
選択することは誰でもできる。

今までと違う経験をすることから身を引くのではなく、ネガティヴな感情を通しても生きる、という経験をするのが、実は自分を自分として成長させていくのに必要だ。
年齢が何歳とか関係ない。

何かの基準に従うために、私たちは生まれてきたのだろうか。
違うはずだ。

『自分』を生きたいと誰もが思っているのではないだろうか。
自分が感じることを、自分に許していく。

そうしていく事で、自己欺瞞やウソの上塗りの中での、人との関わりでなく、
新しい人との関わり方がでてくる。

人は変われる。

私たちはみんな、すごくないけど、すごくて、白でも黒でもなくて色々なのだ。

だからきっとみんな大丈夫だと、
誰もが自分の人生を生きる力を持っているのだと、
私はそれを信じて今日も文章を書いている。








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