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恐れのなかにあるもの

この世界は全て愛だという定義と全く逆であるが、
この世界は空気中に恐怖の菌が含まれていて、
生まれると同時に感染するのではないかと思える。

毒親という言葉があるが、毒親というか
世界は恐怖の毒にまみれていると思ったら、
割と納得できることも多くなるのではないだろうか。

誰もがこの毒に感染して、
傷つき様々な症状で痛み苦しんでいる。

怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、嫉みは
私たちの精神を傷だらけにする。
私たちはこれ以上傷つくのを避けようと、
様々な手段を駆使する。

自らのその防御によって身動きはとれなくなり、
さらに毒が全身に回って膨らんでいくのだが、
それにすぐ気づくことはなかなか難しい。
毒に侵されていない人はいないのだから、
いつ気づくかが大きく人生を左右する。

恐れは義務と期待を投げかけて、
私たちをがんじがらめにする。
「~せねばならない」

他人から求められるイメージに、
完璧にこたえようとすると
『私』はどこでも息をすることさえ
できなくなってしまうだろう。

親が求める私。
祖父母が求める私。
友人が求める私。
学校の先生が求める私。
職場の人が求める私。
パートナーが求める私。
子どもが求める私。

誰かの描く通りの『私』になることも、
求められた『私』でい続けることも
到底無理なのだが、
なぜかそうしなければ
人から拒絶されるのではないか、
誰にも受け入れてもらえないのではないか
という恐怖心で、
自分自身を自分で否定し続ける
ということが始まっていく。

心のなかは、〜せねば、〜べき、
に添えない自分への怒りや
ダメ出しでいっぱいになる。

恐ろしい自己虐待だ。

あらゆる人間関係においての責任は
お互いに半分ずつで対等のはずなのだが、
なぜか相手の分の半分にも責任を負おうとしがちだ。

相手のことに責任を負おうとすると、
どうにかしてコントロールしようとしたり、
依存しあったりする関係が展開する。

そこには愛も尊敬も実は存在していないのに、
密着して揉めていることと
愛情が混同されていることも多いように思う。

お互いにありのままであることを受け入れあうのは、
猫に犬のような行動を望んだり、
犬に鳥のようになれ、などと望まず、
そのままの動物をそのまま受け入れるのと
同じである。
ただそのままを受け入れて、
その犬といたいか、猫といることにするか、
鳥といるか、ということが
人間関係でも出来てる時には
うまく回っていくのではないだろうか。

ありのままの自分を表現するには、
まずたくさんの毒を
自分のなかに取り込んでいることを
気づくことから始まる。

私たちを苦しめる恐れの毒は、
それに気づいた時には何よりの癒しの薬となるだろう。

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