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好奇心の種を育てよう

以前にも少し書いたが、インスタグラムで沢山の人の色んな写真を見るのは楽しい。

犬や猫の様々なペットたち、美味しいもの、楽しかったこと、悲しかったこと。
どの投稿にもその人の世界観があって、その人がその世界を大切にしているのが感じられる時、あたたかいうれしい気持ちになる。
そして、苦しそうな人や悲しいことがあった人の投稿には、そっと応援を送りながら見ることもある。

noteはまたnoteならではの世界観が垣間見えて、こちらも楽しい。

今、時間が空いている時には
「イマソラ撮れるかも~」と、
カメラを持って車を走らせる私だが、
以前は写真を撮ることにそんなに興味もなかった。

興味がなかったというか、
あまりに写真のダメ出しをくらいすぎていて、もう何をどう撮ったらいいのか、さっぱりわからなくなっていた。

写真のダメ出しではあったが、
「下手、ひどい」等々の言葉のみならず
「こんな写真を投稿できるなんて人間として最低だ」とまで言われていると、
自分という人間はどこか欠陥なのだろうか、
と思えてきたものだ。

冷静に考えればどんな状況でもそこまで言われるのに耐える必要はないのだが、『仕事』とか『指導』という正当化できる理由を掲げられた時、身動きがとれなくなる人は少なくないはず。

これは、私の写真の件に限らないのではないだろうか。

人はダメ出しばかりされていると、ますますダメだしされていることがさらに出来なくなっていく。

ダメ出しされているからと、その件について人の何倍も何十倍も努力したところで、無理。

むしろ、どれだけ全てを注いで努力したところで、時間だけかけて努力のみせかけだ、と、もっともらしい正当化された理論で徹底的にけなされることだろう。

人を育てることに必要な何かを、全ての人が兼ね備えているとは限らない。

悪意であれ善意であれ、人を痛めつけるための批評をする人と距離をおかない限り、好奇心の種は決して芽を出すことはない。

緊張していたら、歌は上手に歌えない、ということは、小学生でも知っている。

毎日、批判にさらされていたら、好奇心が夢へと育つ前に種は腐ってしまう。

ごく当たり前のことだが、途中で投げ出すのがいけない、とか、自分に逃げることを許されない環境で育ってきた人などは特に、日陰でひたすら水をビチャビチャにかけられても種を移動させるということを考えず、なんとか発芽させなければ、と踏み止まってしまうことも多いのではないだろうか。

日々、小さな好奇心や自分の感情に陽をあて、風を通し、適度の水をやる。

そのためには、どんな批判にも腐らず「どうしたらいいか?」を自分で自分に問いかけていくしかないのかもしれない。

自分に適切な環境を与えてあげることができるのは、自分しかいないのだから。


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龍公愛実プロフィールはこちらから



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