子どもと大人、親子とは
子ども心を思い出そう。
子どものように。
子どもはありのままで自由で・・
一体誰がこの基準を決めたのだろう。
子どもとは何か。
子どもらしさ、といった基準を書き出せ、
と言われれば、いくらでも書ける。
その基準から違うということで、
どれだけ苦しむ人がいることだろう。
子どもだから無邪気なわけでもなく、
大人だからといって、何でも冷静に俯瞰できるわけでもない。
積み重ねた経験や年月が、
何の影響も及ばさない人もいれば、
経験によって、
全く別人のようになる場合もある。
完全に個人個人の違いなのだ。
それが『個性』
もちろん子どもの時の方が、
自分の個性そのままを出しやすい環境に
いる人は多いだろう。
それだけのことである。
子どもの頃は、
どうしても大人より自分で出来ることに
制限があり、周囲の人の助けを必要とする場合が多い。
そこから、何をどう受け取り選択するかは
自分次第なので、
『子どもらしい』とされる型にはまれた方が
周囲に受け入れられやすいかもしれない。
ある程度の社会性や一般的な知識は、
年齢を重ねれば
長期記憶として入ってくるので、
子どもの頃よりは知っている、わかる、
といった状態になる。
子どもの時は…と言う前に、
『自分らしさ』をあらためて見直して
みたほうがいいかもしれない。
自分で在ることと
年齢は、全く関係ないのだから。
そう考えると、どんな時も
『私』を選ぶか、『他の誰かが決めている何か』の私、を選ぶか、なのだ。
その選択に大きな影響を与えている親子関係。
きってもきれない関係である。
この人間関係にどれだけの
『特別』が込められているだろう。
親は…
子は…
と、他の『人対人』と違う関係のように
語られるのはなぜだろう。
親子の関係にだけ存在する
『特別』はたくさんある。
何でもそうだが、誰が言っていることも、
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
と、視点にゆとりを持つことは大事だと思う。
何でも疑ってみろ、ということではなく、
この世界の全ては合意のもとに、
そのように作られていくだけなので、
自分は何を選ぶか?
を、意識していよう、ということである。
どんな小さな出来事も、何を選択するかも、
自分で決めている。
そういった意味では、親子関係も他の人間関係や、
出来事と違いはない。
親を選んできた、
という物語も、私は全く否定はしないし、
私自身胎内記憶がある。
だからこそ、より力をこめて言いたい。
そのことと、
今の自分の人生と関係づける必要はないと。
親子関係で、関係ないといった言葉を使うと、
愛がない、とか情が薄いとか、
思う人もいるかもしれない。
家族には親だったら、子供だったら…
の期待があるから、他の人間関係以上に関係がこじれたりする。
他の人間関係よりも、
様々な出来事と
感情を絡めて考えてしまうことも多い。
そうやって考えないと、
優しくないとか、子供のことを考えていない、
とか、それはもう、書ききれないほど色々な基準があるだろう。
誰がそう決めたのか、答えられる人はいるのだろうか?
親と子は他の人より、DNAの配列が似ている。
くらいに考えていた方がいい時もある。
無理矢理、
一番最初の人間関係、
親子関係に白黒つける必要も全くない。
親子だから…
と、特別な何かを絡める必要もない。
割り切る必要もないし、割り切れるものでなくていい。
特別な何かを絡めないからと言って、
愛がないのか?
とかそういう話でもない。
愛については
大きく理解の幅、バリエーションがあるが、
親子の愛、男女の愛、と
特定の何かの愛は、
愛の定義として随分限定的だな、と思う。
どんな理論を語ろうとも、
今現在、私たちの時間は平等に限られている。
生まれてきた意味を探すのは
あまり意味がないのかもしれない。
意味がないからこそ、どんな意味も描ける。
親子関係は
人の学び、成長という点では、
多くのことを与えてくれるのは確かだ。
ただ、学びのプールでずっと
泳ぎの練習をしていても海には出られない。
どんな関係からも、確実に切り離された
『自分』を常に感じていること。
そのために、
親子といった、近しい関係をくぐらないと生きていけるようにならない世界が、創られているように思う。
親子の学びのプールを出て、
どこで泳ぐのか。
それを決めるのは、自分自身である。