推しが引退した
わかっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに。
いざ直面すると目の前がぐらぐらする。
セ・リーグ連覇から丸2年の朝、山崎晃大朗の引退は報じられた。
今年のキャンプメンバー発表の時点でうっすら嫌な予感はしていた。
でも大丈夫、とどこかうわ言のようなものを自分に言い聞かせていたが、実際にはそんな前を向き続けられるほど強い人間ではない。
不安になりながら行けそうな日程のチケットを発売日に買いこんでは、当日一軍にいてくれることを願う日々の始まりだった。
幸いなことに、グラウンドに立つ姿を交流戦で何度か見ることができたが、そんな幸せも長くは続かない。
交流戦が終わってしばらく経ち、抹消の公示を見たとき、背中に重苦しいものが被さってきた感覚をよく覚えている。
ああ、もう。これは。いよいよ覚悟しなければならない、と。
途端に心が絶望で埋め尽くされていって、遠い目で見る公示がひどく歪んで見えた。
灼熱の戸田に行った彼の姿を見る時間すら日に日に減っていった。
それは私が生活や心の余裕がなく、戸田の中継を見られないというのも勿論そうだが、そもそも彼が満足に出場できなくなったことが大きい。
全く責める気はない。当時からそうだった。
だって、DH解除をするくらい人のいない戸田で満足に出られないのだから。
守備走塁が売りの選手なのに、指名打者で出る日が増えていたから。
その指名打者すらスタメン発表後に撤回したこともあったから。
彼より走力の劣る選手を代走に出されることが多々あったから。
きっと身体が限界だったのだろうと、それまでの情報もひっくるめて察していたのだ。
責める気は全くない、だがもっと彼を見たいのに、という気持ちは確かにある。
――どうしようもない感情を燻らせた私が辿り着いた結論は、無茶な旅程にしてまでその戸田に駆け付けることだった。
戸田はな、と渋る私の背をいろんな人が押してくれた結果、神宮との親子ゲームを無理やりねじ込むことになり、京セラドームで阪神戦を見ながらリセールチケットを確保したのは出発3日前の話だった。
身体が壊れてもいい、行かなかったらきっと後悔するから――すっかり気の変わった私が戸田まで行くと、確かに山崎はそこにいた。
目にしたのは、きれいなタイムリーだった。
清々しく球がまっすぐ打ち返されて、あっという間に小さな身体が二塁に届く。
打っている、走っている。ただそれだけのことなのに、涙が止まらなかった。
だがそれは序の口でしかなく、直後、5回裏が終わったときに、池山監督がベンチから出てきて口を開く。
「コータロー」
穏やかな声だった。その呼びかけを耳にした瞬間、一瞬止まっていたはずの涙が再び溢れ出す。
ああ、もう今日はおしまいだ。このままベンチ裏へと下がってしまう。きっともう、身体はとっくに限界なんだろう。
涙が止まらなかった。三塁側にいたから、隣のイーグルスファンに怪訝そうな顔で凝視された。
それでも泣き止むことはできず、結局彼は想像通りに5回でグラウンドから降りたのだった。
彼のいなくなった外野を眺めてはまた涙が溢れてくる。交代直後より、少し時間が経ってからのほうが現実が身に染みた。
応援歌も派手な歓声もない戸田球場には絶えずセミの鳴き声ばかりが響いており、雨の影響で季節にしては落ち着いた体感気温もあって、秋が訪れてしまう恐怖心に押し潰されそうだった。
それからずっと、事あるごとに恐怖心や動揺が顔を出す日々だった。
血眼で戸田のベンチメンバーを探し出しては一喜一憂し、毎夜ベッドで涙を流す。
たかが趣味の話でここまで落ち込むのはどうかと思った、こんなに苦しいくらいならいっそファンになんかならなきゃよかったのでは、とすら思った。
でもそんな考えは暗い気持ちに対する適切な捉え方でないともわかっているので、ただただ毎日覚悟を決めようとするばかりだった。
だが、そんなに易い話ではない。
日が経てば経つほど現実味を帯びていって、時間をかけて覚悟しようとしていたはずなのに、却って苦しさばかりが増していく。
気の許せる人に話を聞いてもらい、なんとか脳裏に刻めるだけ思い出を刻もうと、休みの日や在宅勤務のときにはファームの中継を見るが、やはり背番号31を見かける機会は減っていった。
そんなある日、青木宣親の引退が発表される。
私は彼のことも好きだから切なかったし、何より青木の大ファンの友人たちがことごとく咽び泣いているのを見て胸が苦しくなった。
それは勿論私自身が青木に対する寂しさを感じたり、嘆き悲しむ姿に心を痛めたのもある。
だが、白状すると、「山崎晃大朗はこうやって、皆に送り出してはもらえないだろう」という薄暗い予想が胸に蔓延ったから、というのもあった。
そんな風に迫りくる青木との別れを惜しみつつ、今年最後の現地観戦を終えて十日ほど経ったある日こと、9月25日。
冒頭で書いた通り、山崎晃大朗の引退も報じられた。
いつも通り寝起きすぐにスマホを確認したら、いつもと違っていろんな人からリプライやメッセージが届いていた。
しかもどれもやけに薄暗いものばかりで、寝ぼけ眼で通知だけ見た私は何のことかわからずぼうっとするばかり。
少し目が覚めてきて、タイムラインを開いた瞬間、「山崎晃大朗」「現役引退」の文字が目に入って、その瞬間全てを察した。
察して、理解して、少し間を置いて、急に涙が溢れ出す。
覚悟していたはずなのに。準備していたはずなのに。
頭を鷲掴みにされ揺さぶられたように何もかもがぐらぐら揺れて、堪えきれなかったものが目から、そして口からも飛び出してくる。
準備の一環として、事前に上司にも「万が一のときは休む」と伝えていたが、本当はそんな万が一なんてあってほしくなかった。いずれ訪れるとしても、だ。
視界を滲ませつつなんとか休暇申請をして、スマホを枕元に放り投げて天井を見上げる。
朝いちばんで明るい天井がやけに低く見えた。
結局その日は一日中泣き続けており、朝7時半に報せを受けてから、日付が変わって泣き止むまで、おおよそ17時間ほど涙を流していた。
頭は痛く、目は腫れ充血し、鼻は詰まって垂れてくる。仕事を休んで良かったと心底思った。
それでも朝はやってくるし、次の日には働かなければならない。ならばせめて今日だけは感傷に浸ろうと、彼のこれまでの映像を振り返る。
粘り強くて、すばしっこくて、軽やかで、面白くて。
最初にたった1分の動画を見ただけで、人前に出られないくらいの涙と鼻水を流す。
プロ初ホームラン、満塁ホームラン、サヨナラホームラン。
ダイビングキャッチ、ジャンピングキャッチ、クッション処理からの好返球。
盗塁、好走塁、バントに粘り打ちに……試合中だけでもキリがなかった。
テレビのバラエティ、アプリの企画動画、YouTubeチャンネル、ヒーローインタビュー、すわほーカメラ……こっちもキリがない。
振り返れば振り返るほど、あんなこともあったな、こんなこともあったな、そんな回想が繰り返されると同時に「もう見れないの?」「まだ続けてよ」という感情が湧いて出る。
無理なのに。自分で決めたのに。身体が限界で、自分で幕を引くと決めたのだから、ならば気持ちよく送り出してあげるのがファンだろうに。
日がな一日泣き続け、普段飲まない酒も飲み、ぐちゃぐちゃになった感情を抑え込みながらその日はなんとか眠りについた。
丸一日泣いて潰して翌日以降、ようやく落ち着いた頭で少しずつ感じたことがあった。
きっと、山崎本人はファンがこうも泣くのを望まないだろう、と。
なんせ一番悔しいのは本人だ。加えて自分のせいでファンが悲しむのは選手みんなが望まないことだろうし、何よりいつだって笑顔の似合う人だったのだ。ふざけすぎて滑るくらいには、辛気臭い雰囲気の似合わない人。
ならば、だ。自分でユニフォームを脱ぐ決断ができ、それを発表できたのだから、なおのこと私たちファンは笑顔で彼を送り出してやらねばならない、と。
実際に、後に彼も最後まで笑って楽しく送り出してほしいとの旨を述べているので、その認識は全くもって間違いではなかったが、かといって認識一つで笑顔でいられるほど強い人間ではなかった。
そんなことを考えながら毎日ぼうっと過ごしていると、じきに引退記念グッズの発表があった。
その告知を見た瞬間全身が硬直する。
まさか、まさか戸田で終えてしまうのか? ――周り共々目を疑ったが、どちらかというと否定したい疑問は正解であり、今季の戸田最終戦で彼は現役を退く意向だと報じられた。
呆然とした。信じられなかった。
あれほど引っ掻き回してきたというのに、最後は戸田でひっそり消えようとするのか、ふざけるな、と怒りすら覚えた。
だがそんなところも彼らしい、と妙に納得する自分もいたのが笑えた――というのも、何かと脇役であろうとした人間なのだ。
大々的に神宮で、というのは望まないのだろう。恐らく固辞したのだと皆示し合わせたかのように頷く。
だが、理解はできても納得はできなかった。
それでも彼自身が望んだことなら、と、無理やり納得しようとしたが、やはり素直に飲み込むことはできず。
刻一刻と迫る別れの日を憂いていれば、いつの間にかあの夏の熱気はどこへやら、空調を控えられる程度には秋が訪れてしまっていた。
そして訪れた9月29日、私は昼間から缶ビールを開けてテレビの前で呆然としていた。
液晶の中では戸田球場でプレーする選手たちが映っており、その中には山崎本人もいた。
一気にアルコールを流し込んだからふわふわする頭でも、これが最後なんだというのはしっかり感じていて、試合が始まる前からぽろぽろ絶えず涙が溢れ続ける。
1番センター山崎――この文字列を見るのも最後だと、そう思った瞬間に涙や感情をせき止めていたもの全てが崩れ去った。
正直、あの試合で何が起きたかをあまりよく覚えていない。
ただただ3回裏、ライトスタンドへぐうんと伸びるホームランを打った瞬間、「持ってる男だなあ」と呟いて、そこから声を上げて泣いたことだけは覚えている。
幸いなことにYouTubeにまだ中継が残っているから、消えないうちに何度も噛みしめたくはあるが、未だに振り返る勇気はない。
視界も頭の中も胸の内側もぐちゃぐちゃだったけれど、とにかくあのホームランは打った瞬間、思わず顔を上げて身を乗り出してしまう飛び方をしていたのは、間違いなく自分の記憶にしっかりと刻み込まれていた。
ホームランの直後、山崎がグラウンドから退いて、いよいよお別れだと現実を突き付けられた瞬間、最早私は声すら出なくなっていた。
相変わらず涙だけは絶えず流れていくが、喉から嗚咽を出す元気すらない。
完全に燃え尽きていた。
笑って見送るはずだったのに、手にしたスマホに映り込んだのは、笑顔とは真逆の、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった醜い泣き顔だった。
そうして無事戸田スワローズが勝利した後山崎は挨拶の場を得ることになる。
一周回って涙も落ち着いてきたその時、彼は信じられない言葉を口にした。
「このまま戸田で終わってしまうのは寂しいから、神宮へ行かせてもらうことになった」と。
耳を疑ったし目も疑った。私が耳にした言葉と、目にした表情は、現実なのだろうか。
一瞬戸惑ったけれどそれが冗談でもなんでもなく、直前にそう決まったという嬉しいサプライズだと発覚して、最後に慣れ親しんだ神宮で別れを告げる喜びを得たものの、同時に最後を見届けられない悔しさも湧き出す。
ぼんやり、ほんの僅かな声量で「行きたかったな」と唇が動いた。
ふらりと、指先が「行きたかったな」とインターネットに残した。
でも、神宮でお別れできるだけ幸せなのだと、大勢に見送られるだけ恵まれているのだと言い聞かせようとした矢先、とある知人からリプライが送られてくる。
「チケット要りますか?」
動揺した。戸惑った。いろんなことを天秤にかけかけた。
だが行かなければ後悔するんじゃないか、と。戸田へと背を押されたあの日を思い出す。
ほんの少しだけ生じた迷いを振り払って、急いで指を滑らせ返事をする――よろしくお願いします、そう返すほかなかった。
それから10月3日まで、短くて長い4日間だった。
日を追うごとに小出しでいろんな情報が回ってきて、そこで初めて彼がメニエール病を患ったことも知った。
自分の母親がメニエール病の患者であることもあり、あの病気の恐ろしさは知っている。
だから、そんな状態で、なおかつ膝の状態が芳しくないのなら、引退もやむを得ないのだろうと腑に落ちた。
そうやって、弱みを自分からは語らないところも、実に山崎らしいと思った。
そして、そういうところこそ自分がファンたる所以のひとつなのだとも思った。
とにかく脇役に徹しようとする健気さだとか、暗い雰囲気を持ち込まないようにする明るさだとか、礼儀や野球への姿勢などの真面目さだとか。
好きなところを指折りひとつ数えるほどに、選手として見せていたそれらはもう過去のものになってしまうのだと、そう考えてしまって切なかった。
結局そんな心境は当日になっても変わることなく、正午で退勤して飛び乗った新幹線でぼんやりとXを眺めていた。
すると、ガムテープで作った背番号31の「お手製」シャツを、各々纏う選手たちの写真が流れてくる。
泣いていいのか笑っていいのか、わからなかった。
そういうところも「らしいなあ」と思った。
前日の青木の引退試合とうって変わって、どこか間の抜けた感じがするというか、やろうと思えばシャツなんて容易く作れるというのに、あえてガムテープで雑な仕事をしたり、「強肩」だなんて思ってもいないであろうことを書くあたりがいかにも「山崎らしい」と思って、そうやって後輩にからかわれまくったり、それに対しファンからの愛あるコメントが並んでるのを見て、本当に愛された選手/人間なんだと再認識して、自分が泣いているのか笑っているのかもわからなくなっていた。
神宮に着いた頃、上空からぱらぱらと雨が降っていた。
今更ながらものすごくポエミーなことを書くと、空も泣いていたのかもしれない。
落ち着かない感情を宥めつつ神宮に向かい、何人か知り合いと会話を交わし、譲ってもらったチケットを受け取り、外周の引退記念グッズやグルメを買って球場に入る。
見知った球場なのに、とてつもなく寂しい場所に思えてしまった。
自席に荷物を置いて売店にグルメを買いに行って、売店の列に並びながら去年のことを振り返った。
去年、山崎のグルメはラーメンとクレープ、ドリンクしかなかった。
ドリンクこそ通年販売だったがラーメンとクレープは春先のみの販売で、ノベルティの小さな旗は春先しか手に入れられなかったのだ。
ファン感謝DAYの凍えるような寒さの中、ラーメンが食べれたらいろんな意味でどれだけ幸せだったかと切なかったのをよく覚えている。
そんな一つ一つも立派な思い出なのだと、やっとの思いで買えたラーメンとつくね、サワーを抱えて自席に戻れば、試合開始はもう目前に迫っていた。
内野三塁側だったこともあり、周りのカープファンに気を遣いながらグルメを食べ進めていると、じきに山崎の打席が回ってくる。
神宮で見れた、最初で最後のスタメン。
一番ではなかったけれど、ずっと聞いてみたかったヤマザキ一番! が流れた。
その瞬間、球場の雰囲気ががらりと変わったのを覚えている。
待ってました! と言わんばかりの歓声、手拍子、曲に対する笑い。
彼にとても似つかわしい、明るい雰囲気で満ちた神宮だった。
だが、私は完全に笑うことなどできなかった。
なんとか口角は上げてみるものの、不自然に見開いた両目からはぶわりと涙が溢れてくる。
泣かないって決めたのに。笑って見送るはずなのに。
「コータロー!」と叫んだ彼の名も、輪郭が曖昧になるくらい震えていた。
高い声、低い声、どちらを出すかも決められなかった。
ずっとずっと、神宮で聴いて、そして歌いたかった応援歌。
震えてしまって声量も音程も保てず、微妙になってしまった歌声を必死に左バッターボックスに捧ぐ。
溜めに溜めて「コーータローーーー!」と名を叫ぶことも叶った。
ずっとやりたかったけれど出来なかったことを達成して、少しでも力になってくれたらと客席の片隅で両手を握り締める。
そのおかげか、彼は最後にマルチヒットと結果を残してくれた。
きっと身体は限界だろうに、彼は最後まで試合に出続けてくれた。
よって9回裏2アウトで打席が回ってきて、なんて持っている男なのだと感嘆したところで2安打目を打つものだから、本当にどこまでもおいしいところを持っていく男なのだと思う。
結局試合には負けてしまったけれど、彼は間違いなく最後の雄姿を私たちに見せてくれたのだった。
試合後の山崎の顔を見て改めて、本当に穏やかな、悔いのない顔で笑うなあ、と微笑ましく思うと同時に、こうも号泣する己のことを恥じた。
本人が決断したことだから。本人が笑っているから。本人が「笑顔で送ってほしい」と望んだから。
ならばファンとしては笑顔で送り出すほかないのに、試合終了のアナウンスを耳にして、いよいよ最後なのだと突き付けられ、人前だというのに情けない声すらとめどなく口から溢れ出る。
きちんと整列したはずのスワローズの選手たちがぐにゃりと曲がって見え、まっすぐ一列だと視認することができなかった。
その後、高津監督に無茶ぶりされる形で山崎はスピーチを始めた。
彼の「走攻守微妙な」という表現を汲み、自分自身でも「中途半端」という表現をして、否定したかったけれど首を左右に動かす気力すらない。
確かに数字だけ見れば中途半端なのかもしれない。でも、本当の意味で「中途半端」なら9年間もプロ野球選手なんて続けられないし、一軍でレギュラーを張ることもないだろう。
何より、そんな存在なら、こんなにもたくさんのファンが別れを惜しんだりしない。
悪い言い方をすれば「器用貧乏」なのかもしれないが、それでも求められた仕事をしっかりこなすあたりは職人だと思うし、グラウンド上のプレーでも、教育やエンタメといったプレー外でも、立派な戦力だったといちファンながら本当に誇りに思っている。
わざわざ作られ掲げられたボードや、投げ込まれた色とりどりのテープ、そして花束が全てを物語っているだろう。
本人としては「自分なんか」の意識が強いのかもしれないが、それは強く否定させてもらいたい。
戸田でひっそりとプロ野球選手としての生涯を終えようとしたことも許すものか、と思った。
自分で思うよりファンは誇っている、愛しているのだから。
グッズはもちろん、グルメも急ピッチで用意されたのも証左ではないだろうか。
そんなことを考えて顔も情緒もぐちゃぐちゃにしていると、山崎が次第に選手たちに囲まれていく。
ああ、とうとう。自分が主役となって担がれる側になってしまった。
逆に言えばこうやって神宮で、大勢のファンに見守られながら胴上げをされるのは、きっと恵まれた野球人生なのだろう。
縦に二回、胴上げと言えるかわからない山崎式胴上げを見届け、拍手をし、私は壊れたように「ありがとう」と何度も口にした。
もっとも、胴上げはそれだけで終わらなかった。
最終戦のセレモニーが終わり、観客から寄せられる言葉なき圧で選手たちが寄せられ、自然と山崎を中心に再び大きな輪が出来上がる。
至って普通の胴上げだった。垂直でなく、身体を横たえ、いろんな選手が下から押し上げる。
両手でピースサインを作って宙を舞い、そして落とされるのを見て、最後まで何から何まで「山崎らしい」とようやく自然な笑みが浮かぶ。
ナインも、観客も、そして本人も笑顔で、笑いとちょっとの涙の絶えない、とても暖かいセレモニーだった。
体格や運には恵まれなかったかもしれないが、そういった面ではとても恵まれた選手だと個人的には思う。
本当に、山崎晃大朗とは、いろんな人に愛された選手だった。
だからこそ、その愛や情熱に呼応して、きっと身体はもう限界だろうに、自分自身が別れを告げる意図もあったとはいえ、最後にフル出場してファンにも別れを告げさせてくれたのだろう。
その真摯な姿勢には感謝するばかりだった。
何より、この9年間、その小さな身体でグラウンドを引っ掻き回して、なんなら野球以外のところも含め、ずっと楽しませてくれて感謝しかない。
ありがとう。
本当にありがとう。
あなたのファンでいられて本当に幸せでした。
これからは「山崎晃大朗外野手のファン」ではいられませんが、ずっと、ずっとこれまでの、これからの山崎晃大朗のファンです。
とても笑顔の似合う人ですから、どうかこれから歩む人生も笑顔で満ち溢れていますように。
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