【短編小説】逆境のダガーナイフ episode 1
いつかの沛雨に敗れ、頭を垂れたまま眠る向日葵を、水垢のついた窓ガラス越しに眺めていた。時が過ぎるにつれて、美しく思うようになった。
向かいの家の小さな花壇に咲く、その花たちがまだ元気だった頃、私はこの襤褸家に住み始めた。新宿から都電を乗り継ぎ四十分。私鉄に揺られて二十分。北黒岩駅で降車し、東に十二分ほど歩いて漸く辿り着く質素な襤褸家。間取りは六畳一間。家賃は四万五千円。四世帯だけのアパートが故に、ふとした時に横からも上からも煩わしい生活音がして、安らぎなぞ微塵もない。
しかし私は耐え続けた。変化を待った。待たなければならない理由があった。その変化を以て、生まれてから今日までの情けない空白を、全て埋め尽くしてやりたい。ざっと二十五年の歴史を全て覆し、至高のエンドロールを迎えたい。それが為、如何ともしがたい苦役にも耐え続ける必要があったという訳だ。
午前九時を過ぎた刹那、風もないのに草花が揺らめき、ここ数日すっかり開かずの扉と化していた向かい玄関の奥から、寂れた町並みには不似合いなダメージデニムでキメた女が現出するや、私の興奮は最高潮に達し、細胞の蠢きがぐんと加速した。
女が、舗道に沿って駅方面へと歩き出す。私もすぐと駆け出して、軋む引き戸を粗雑に突破し、それから蛇のように息を潜めて、彼女の後を追いかけた。
女は浅田唯華というらしい。苗字は家の表札から、名前は玄関先で呼び止める家族の言から掴んだ。素敵な名前だと思う。何にしても、前進と考えて間違いない。仮に彼女の名前を知ることなく、想像さえ出来ず、この戦いが終わってしまったなら、きっと彼女にマリアンヌと名付け、ただ夢の中で愛でる日々に閉じ込められていただろう。
北黒岩駅に向かう途中、唯華が鞄からアトマイザーのようなものを取り出した。結論としてそれは香水のアトマイザーで、手首と首筋にワンプッシュずつ吹きかけた後、また鞄に戻したのだった。彼女が通過した後の道に、香りは残されていなかった。
駅に近づくにつれて、人波が高くなる。こんな辺鄙な町から、人々は東京の中央部を目指して彷徨しているのだ。
駅のロータリーで、彼女を見失ったことを悔いる必要はない。上出来だ。確かな進歩。私の算段では、この勝負はまだ序盤。ボクシングなら第一ラウンドが終わったばかり。ポイントは彼女が優勢でも、私はノックアウトだけ狙えば良い。残りの十一ラウンドのうち、仮に十ランド全て取られても、最後に仕留めればなんら問題のないことだ。
その日の夜、微睡みの中で微笑む彼女の肢体は、いつもより艶めかしく、私の脳幹を激しく刺激した。
夢で逢える日が増えた。それは悪いことじゃない。悪いことじゃないのだが、駅から先の世界で生きる彼女に触れる術を知らない私の心中は、夢裡と現実の乖離によって混乱に塗れていた。
唯華と初めて会ったのは、上野の美術館だった。人生に厭いて立ち寄った小さな美術館には、天使がいた。天使の瞳に、女神を見た。彼女との間に強い繋がりを感じたのは、私が元来その手の趣味を持たない人間だからだ。その日、私は彼女に惹かれて、引かれて、北黒岩駅に降り立った。結果として、この動きがなければ、私と彼女の縁は発生し得なかった。なぜならば、彼女はそれっきり先述の美術館に現れなかったからである。これもまた、運命に身を委ねる強い動機となった。
道端で偶然を装って接触するほど、私は愚かな男ではない。何の策もなく難敵に挑むほど、馬鹿なファイターでもない。であるが故に、停滞した。その場から立ちゆかなくなった。とどのつまり、彼女の行き先を知る術がないのだ。家を出る時間、出る曜日、服装などは把握しても、その先に待つ彼女の物語に介入する術が、まるでないのだ。
私は悩んだ。二十五年の空白を埋める為に、本気を出して悩み続けた。町の書店を見て回り、チラシの裏にある探偵事務所の広告を見つけ出した時、三日三晩強ばっていた顔が綻んだ。これだと、すぐ記載のあった番号にかけて、訪問の予定を取り付けた。相談料で五千円取られるらしいが、安い出費だと思った。
探偵という職業に対する造詣が深くない私だが、彼らの通常業務が殺しの犯人捜しなぞではなく、浮気不倫の調査であることくらい知っている。だからこそ、それを利用しない点はないと悟り、動いた。
探偵事務所の職員とは、駅前の薄暗い喫茶店で待ち合わせた。その日、私が店に入って間もなく若い黒服男がやって来て、私の向かいの席に座った。おそらくだが、彼は私より先についていて、依頼人が私であるとすぐ見破ったに違いない。こんな男と正面からやり合うのだけは御免だと、私は自戒の意味も込めて普段飲まないブラックコーヒーを注文した。彼も同じブラックコーヒーを頼んだ。
男は開口一番に、
「岩井です。本日はよろしくお願いいたします」
なぞ無愛想に呟き、こちらの会釈には一瞥もくれず鞄から書類を二枚取り出し、机上に見せると、手元に一枚残し、もう一枚を私に手渡してきた。
「はあ……なんですかこれは……」
私が言うと、被せるように岩井が言う。
「契約前のご確認事項です。ご依頼を検討されていると伺いましたので、念のため」
紙に目を落とすと、小さな文字で、
「当事務所の業務内容について」
とあって、これは契約書のようなものだと解した。
そこには探偵業の一般的な概要が書き記されていた。営業時間や地域による料金の違いなど、一般常識程度で知らないことは少なかったが、どうでもいいので読み飛ばすことにした。その下の禁止事項につても、ごく一般的な項目ばかりで、読むには値しなかった。尤も、私が本当に探偵を雇おうと考えているなら、隅々まで読み通して損はないし、時間が許す限りそうすべきとも言えるが、それは私の狙いじゃない。狙いは、こうだ。
「依頼については、仰るとおり検討中といった段階ですが、その前にお尋ねしたいことが幾つかありまして、よろしいですか?」
「ほう? どうぞ」
「実を言うと、婚約関係にある女性がこの頃ちょっと怪しくてね。同棲中なんですが、僕の仕事がない日に、行き先も告げずに夜までほっつき歩いているんです。後で訊いても教えてくれないし、あるときは大学の同期と飲み会に、またある時は取引先との接待に、とまあ無難なことばかりで、嘘をついてるんじゃないかって疑ってる訳です。だって、ここ二ヶ月の間に同じ休日を過ごした日なんか一日もないんですから、そりゃ疑いたくもなるでしょう。一緒に住んでいるのに、これから結婚しようと言うときに、これじゃあ困るんですよ」
高校時代、三ヶ月ほど在籍していた演劇部の経験がここで活きた。無論、全ては嘘八百、八千。出鱈目だ。ところが岩井は、私が台本を読み上げるような口調に異を唱えることなく、真剣に耳を傾けていた。で、私の話が途切れたところで、また口を開く。
「なるほど、男の匂いがする訳ですね……いいでしょう。当事務所の業務内容はご存知ですか?」
「確か浮気の調査でしたよね」
「ええ、そうです。私は探偵ですから、警察ほどではありませんが様々なことを知っています。何なら、浮気不倫の調査に関しては私共の方が上手でしょうな」
岩井はにやりと笑い、手元の書類に目線を移した。私は彼より早くそれを手繰り寄せる。依頼内容に目を通すと、そこにはこう書かれてあった。
浮気調査、探偵業務及びその付随業務の委託について。契約条項を遵守される限りにおいて効力を有する事項であることを保証するものとし、本件に関する一切の訴訟に関しては、契約者個人がその責任のすべてを負うものとする……。畢竟、目の周りから片付けて整頓をと言っているようなものだ。まるで的外れ。逃げの姿勢。やるだけやって、やばくなったら丸投げして戻すという暴挙。傲慢。下銭。お話にならない。
私は、手元の紙から目を外さぬまま仕掛けた。
「頼もしいですね。ただし、相当な手練れじゃないと頼めませんね。自分で尾行してみたことがあるんですが、巻かれたのかドジを踏んだのか、すぐ見失ってしまいましたから。まして戦場は大都会。きちんと証拠を握るまで、粘り強くやってもらわなきゃ」
「ご安心ください。弊社は安心と安全の法人探偵……在籍人数も多いですし、ノウハウもあります。それに、尾行が上手く行かないとか、万が一相手に悟られるようなことがあっても、二の矢がありますから」
岩井はまんまと乗ってきた。私はその隙を見逃さない。
「ほう、なんと?」
「GPSですよ。こっそり相手の持ち物に忍び込ませてしまえば、後はスマホで監視するだけです。行き先がホテルとかであれば、その画面と位置情報を記録して、証拠として使えます」
「へえ、しかしバレませんか?」
「その辺りはまあ、テクニックですよ」
勝利の法則に気が付いた。ひょっと頭脳が回り出し、薄暗い店内の照明も爛々と輝いて見えた。すべて上手く行く。間違いない。この道で、女神の心臓を我が手に。
その私の綻びに、不気味さを感じたのだろうか。岩井は少し訝しげに、また猜疑心を隠そうともせず訊いてきたのだ。
「あの、本当にパートナーのことでご依頼いただけるんですか? 嘘じゃありませんよね、今の話。たまにいるんですよ。本当は自分が不貞を働いた側で、探偵に探られたくないからって先手を打つ不届き者が。もちろん依頼であればどんな人間でもお客様ですから、尽力いたしますがね、誰にでも手の内を明かしてちゃ、仕事になりませんから、そういう冷やかしまがいなことはお断りしてるんです」
私は恵比寿顔にならぬよう堪えるのに必死だった。嘘を吐くときのコツは、度胸と愛嬌とタイミング。それがこうも完全に嵌まるとは思わなんだ。もはや、岩井がその疑念を払拭しようがしまいがどうでもいい。取るに足らない問題だ。私は勝ち誇ったように嗤って見せ、
「ご心配なさらずとも、前向きに検討させていただきますよ。でもまあ、今日のところは持ち帰ります。これ、今日のお代です」
草臥れた五千円札を一枚差し出し、岩井の目を見た。岩井は無言で受け取り、それから少し間をおいて口を開いた。
「あの、今村さんでしたよね? 念のため、身分証明書のご提示をお願いできますか? 本当は契約成立してからなんですが、ちょっと内容が内容だけに……すいませんね」
専業の勘というやつだろうが、この瀬戸際でまだ悪足掻きを見せる岩井。が、届かない。私には。
「ええ、結構ですよ」
先刻、金を出した折りたたみ財布をまた開き、今度は運転免許証を渡す。無事故無違反ゴールド免許。大型二種免許持ちだ。それを見て漸く、岩井は折れた。
「今村正義さんで、間違いありませんね。これは失礼。私も大した口じゃありませんが、警察同様疑うのが仕事な部分があるもんでして、どうぞご理解ください」
「ああ、いえいえ。いいんですよ。じゃ、また」
「ええ、ご連絡お待ちしております」
もう振り向かずに店を出た。晴れた空の色が清々しく、世界は軽かった。さて、種を蒔こう。種たちの生育には時間がかかる。しかし、それを実らせてみせるのが私の仕事だ。幸いにも時間ならある。金も少しだが、ある。岩井との話は私の計画を全て良きものに昇華させてくれた。もう会うことはないだろう。私からの連絡が無いことに、彼はまた疑問を抱くに違いない。しかし、その頃にはもう手遅れ。後の祭り。まったく、岩井は御しやすい男だった。町の探偵風情ではこの程度のものかと、束の間の緊張を解き安堵した。
家に帰ると夜だった。相も変わらず暗い部屋の中で、私は財布から免許証を取り出すと、工作用ハサミで切り刻み、ゴミ箱の中に放り込んだ。その免許証に書かれた今村正義の名は、もう不要となったからだ。翌朝、生ゴミの中にちりばめられた偽造免許証の破片を、巡回するゴミ収集車に直接放り込んだことは、特筆するまでもない。
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