なぜ作ってたのか
ある時からずっと自分と向き合っている。
今やってることが本当に好きなのか、子どもが好きなのか、そもそもから考え続けたけど、今もなお明確な答えは見つからない。
人からアドバイスをもらってやってみても、言い訳ばかりしてやり切ることもできないし、そんな自分を嫌になりながらそれでも許すことをしてきて。
今の仕事をして良かったと思うのは、子どもたちの中にある「自分」を客観的に観れるということ。
出会う子どもたちは自分を見せてくれる存在。鏡。
最近来た女の子たちは特に自分と重ねて観ている。
その子たちの印象は「難しそうな子」だ。
つまり自分自身を難しいと思ってもいるんだな。
昨日話を聴いた子は学校に行ってなくて、行けなくなった理由をひとつひとつ教えてくれた。
答える時にクセのように言ってる「なんて言えば良いかなぁ」「けどなぁ、、、」
で、本当のところはどうなのか聴いていくと、「やりたくない」「興味ない」「つまらない」
なるほどなぁ。
多分今わたしの中にある感情もそれに近いのかな。
彼女は好きなものがあって。だけど同年代でその話ができる人がいないんだとか。
わたしもそうだった。周りに話が合う人がいない寂しさ、虚しさ。
当時は自分の嫌なことをされても、嫌ということすら言えなかった。
嫌って言っても聴いてもらえない、伝わらない。
なぜそうするのか説明してもらわないと理解できない。
そうして身につけたものは、自分を守るためのウソをつく術と人に話を合わせることと、距離をおいて付き合うこと。
一人でいることは好きだけど、孤独に生きたいと思ってはいない。
人と話すことで自分の存在価値を確かめている。
作ることをしているのは、それをしていたら人と繋がることができたからだ。
小難しい私がそのままでいられたから。
受け入れてもらいやすかったから。
好きで続けてきたわけではなくて、人と繋がるための手段だったんだ。
作る以外にもあったけど、それが一番心地よく人と繋がれたから。
ここ数ヶ月の間に厳しい指摘も受けてきた。
厳しさがその人の優しさであると理解するのにも時間がかかる。
信じられないような自分に出会って、胸を抉るほど自分を傷つけながら、受け入れてきた。
理解すればそれは感謝に変わる。
わたしを信じてくれる人に応えられる自分でいたいと思う。
だから作る(手を動かす)は今のところ続けている。
好きという感情そのものすらわからないのかもしれない。
それでもこれをしていたらニヤニヤしちゃうような、息を吸うようにできるものに出会えたら良いなと今さら思う。
わたしを受け入れてくれた友達と仲間に改めて感謝する。いつもありがとう。頑張る。