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文楽の男伊達――竹本織太夫

1月、2月と歌舞伎座は高麗屋三代襲名披露。重責がかかったであろう十代目松本幸四郎、『熊谷陣屋』の熊谷がすくっと頼もしく。過去への感慨に耽る引っ込みは、むしろこれから続く未来をも思わせるものがあった。玉三郎・仁左衛門を向こうに回してのダブルキャストで海老蔵・菊之助も奮闘。猿之助、幸四郎に続き、いよいよ歌舞伎はこの世代の大きな襲名が続く。

同時期、文楽でもまさに彼らと同世代の太夫の襲名披露があった。初春公演で、豊竹咲甫太夫が、六代目竹本織太夫を襲名したのである。

国立劇場の第二部。口上には、織太夫と師匠の豊竹咲太夫のふたりだけが並んだ。八代目竹本綱太夫の五十回忌追善公演でもあり、咲太夫が、実父・八代目綱太夫との思い出を語ったあと、隣に控える織太夫を紹介する。

文楽の場合、襲名する当人は口上を述べない。織太夫はただ深く頭を下げるのみ。より実力主義の色濃い、文楽の自負が感じられる襲名披露のやり方だと思った。

織太夫を初めて意識したのは3年前のこと。『奥州安達原』での明朗とした語りを聴いた。リズムのキレが際立っていた。呼吸を役に受け渡すことで的確な人物描写がなされている。終演後、知人の仲介で挨拶をした。すらっとした長身、仕立てのいいスーツ。図抜けた身だしなみのセンスだ。それでいて気さく。好漢ぶりにすっかりやられてしまった。

その後、文楽のスポークスマンとしての顔も知る。彼のセンスと博識なら、様々な身の振り方もありそうだが、妙な色気を出さず、すべては文楽のためという真摯さにも好感を持った。

告白すると、折々に鑑賞してきた文楽ではあったが、私にとって理会のよすがができたのはごく最近のことだ。

太夫、三味線、人形の三位一体。だが、まずはどうしても人形に目がいく。アイコンタクトがあるわけではない。三者がぶつかり、絡み合う。その息詰まる緊張感や迫力を楽しめばよいし、実際そう心がけるのだが、毎回上手くつかめた気がしない。人形の動きを追うだけで終わってしまうのだ。

一変したのは、一昨年の初春公演。それまでずっと東京公演を鑑賞していたが、初めて本場大阪の国立文楽劇場での鑑賞が叶った。国立劇場(小劇場)よりもひと回り広い客席。しかも普段は前方席を選ぶのだが、この日は当日券だったため、かなり後方の席だった。床も人形も遠い。しかし、これがよかった。

演目は『関取千両幟』。決死の負け相撲へと向かわんとする夫の関取に、切ない胸の内をクドく女房おとわ。太夫は豊竹嶋太夫。その語りは、すべてを悟りながら気丈夫でいるおとわの思いをグググと深掘りしつつ、劇場に巨大な空間を生みだしていた。三味線がテクスチャーを加える。そうして生まれた空間のなかでのみ、人形は生命を吹き込まれていた。三者を同時に見渡せる後方の席だからこそ、コンビネーションが体感できた。

なぜ文楽は「見る」ではなく「聴く」なのか。そうか、まずは太夫の語りに身を預ければよいのだ。

嶋太夫の引退公演でもあった。ギリギリ間に合った、と思った。

嶋太夫が現役を降り、太夫の最高格である切場語りは、いまや織太夫の師匠である咲太夫ただひとりである。そもそも文楽の太夫自体、竹本、豊竹合わせても20名ほどしか存在しない。

だからこそ、このタイミングで織太夫を襲名することの意味は大きい。

近年、活躍する太夫のルーツを遡れば、豊竹山城少掾に行き着く。歌舞伎の六代目菊五郎がそうであるのと似て、義太夫節を近代以降に見合ったものにアップデートさせたのが山城少掾だ。彼の弟子たちが、現在へと続く流れを形成している。

八代目綱太夫もまたそのひとりだった。埋もれかけていた近松作品に光を当てたことで、時代物が主流だった文楽に、世話物の活力を取り戻した功績でも知られる。それまでタブーとされていた歌舞伎と文楽の共演を八代目松本幸四郎と実現した改革者でもある。

この代々の綱太夫の前名こそが、織太夫である。

八代目綱太夫の五十回忌に、織太夫を襲名する。当然それは、先のレールを見据えつつ、その芸風を継ぐことを意味する。咲甫太夫であれば許容された芸の可能性もあっただろうが、それでも織太夫は、綱太夫に連なるその名を引き受けた、織太夫という名跡に己の呼吸を引き渡したのだ。

襲名披露狂言は『摂州合邦辻』、師匠・咲太夫と鶴澤清治(織太夫の伯父)の「切」に続き、盆が回ると織太夫が登場。合邦家の段の「終」、三味線は鶴澤燕三だ。

床本を目上に掲げ、織太夫が一瞬目を瞑った。そこから一気に、玉手御前、合邦、俊徳丸、それぞれの個性が塊となり、コマがスピンするようにぶつかりあい、弾きあった。なかでも合邦の娘・玉手への複雑な思いは、鉛製のごとく重たい。ズシンと底に突き当たると、いくつもの破片となり、「ヲイヤイ、ヲイヤイ、ヲイヤイヲイヤイヲイヤイ……」と飛び散った。

これが織太夫の「風」なのだ。目指すべき頂がある。つまりはまだこれからの芸なのだろうが、しかしそれにしても織太夫は、呼吸のみならず、魂まで明け渡してしまったかのようだ。全身全霊。私までもその空間に吸い込まれそうなほど、物語に引き込まれた。

襲名に先立つ昨年末、織太夫は国立文楽劇場近くの商店街すべてを練り歩き、挨拶回りをしたという。

17世紀後半、道頓堀に竹本座が誕生して以来、文楽の本拠であり続けたミナミ。この地で織太夫は生まれ育った。

客観的に見て、安泰とは言い難い状況に文楽はある。だが、その芸能に我が身を捧げようという織太夫の男伊達ぶりには、希望しか似合わない。

(九龍ジョー『伝統芸能の革命児たち』より)


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