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#4 水餃子
どうやら、私がまわりの人と違うことを意識し始めたのは四歳のころらしい。らしいというのは、自分では覚えていないからだ。
大人になって母親が、
「あなたは保育所に通っていたとき、送り迎えをしてくれていたおばちゃんに『中国語を話さないで!』と怒ったのよ」
と教えてくれた。母の姉である叔母が送り迎えしてくれていた記憶もなければ、そんなことを言った記憶もなかった。
初めて聞いたときは、へーと流したけど、よくよく考えてみると、四歳で自分の話す言葉を恥ずかしいと感じるのはどうなんだと思うようになった。
日本に移住してからは、大阪の南のほうで育った。中国残留孤児やその子孫が来日後に割り当てられる集住地区で、保育所には私と同じ背景をもつ子どもがいたそうだ。
「三丁目の団地の西村さんも、スーパーの近くの団地の新田さんも中国人なのよ」
母のそんな話から、なんとなくその地域に暮らす誰が中国人なのかは知っていた。ただ、当事者の子ども同士ではまるで暗黙の了解のようにそれを話題にすることはなかった。
小学校の低学年までは同級生を家に呼ぶことがあった。誕生日には団地のダイニングでぎゅうぎゅうになって座り、母の作る水餃子を一緒に食べた。もくもくと湯気が立つ作りたての水餃子に「わーー」と驚く友だちを見て、誇らしげに思った。
どうやらこの時期は、自分と家族が中国人であることを隠してはいなかったようだ。そもそも小学校は二クラスしかない狭いコミュニティーだった。すでにみんな知っていて隠す必要もなかったのかもしれない。
四年生のときに掃除をしていると、クラスメイトの安井くんに、
「水野って帰国子女なん?」
と聞かれた。
私は手に持っていたほうきの動きを止め、その場で固まった。
「あれ? 私って帰国子女なのかな」
たしかに家では日本語ではなく中国語を話す。お母さんかお父さんのどちらかが日本人で、どちらかが中国人のハーフというわけでもない。そもそもハーフという言葉すらまだあまり聞かない2000年代のはじめだった。
帰国子女の意味はよくわかっていなかった。ただ、何かしら「外国」と関わりのある日本人をそう呼ぶのだと思い込んで、とりあえず自分は帰国子女ということにした。
中国人ではあるけれど、日本で育っているし、「中国人」のほかに日本に馴染む自分を表す言葉を探していたのかもしれない。でも、子どものころの私はまだその答えを見つけられなかった。
四年生の担任の高木先生との出会いが、小学校の思い出の多くを作ってくれた。丸い黒縁メガネをかけ、あまり笑わない高木先生は怖そうに見える。でもその厳しい目と表情とは裏腹にとても暖かい人だった。
当時、動物に興味があった私は飼育委員になり、毎日うさぎ小屋に通った。そこにはたまにメスとオスのうさぎが混ぜこぜになり、産み落とされる赤ちゃんが放置されることがあった。その赤ちゃんを教室に持っていき、ティッシュケースの箱で育てる提案をしたのが高木先生だった。
教室でスポイトにペット用のミルクを入れ、赤ちゃんうさぎに飲んでもらうやり方を教えてもらった。夜は高木先生が家にうさぎを持って帰り世話をしてくれた。ほかにも怪我をしたうさぎの手当てをしたり、一匹一匹に名前をつけたりした。休憩時間も放課後も飼育小屋に通うのが日課になった。
一人っ子の私にとって、うさぎの世話はまるで妹や弟の成長を見守るようなかけがいのない時間だった。つけた名前を呼ぶと反応するうさぎには野菜を多めにあげ、名前を呼んでも無視するうさぎはちょっと雑に接したりと、偏りのある愛情を注いでいた。
ある時、何者かが夜の間に学校に忍び込み、うさぎが殺される事件が起きた。小屋の金網が壊され、コンクリートのブロックの下に敷かれたうさぎの死体や、中で花火をした跡が残る変わり果てた小屋を見たときは、死体をまるで物を捨てるかのようにゴミ袋に入れた先生に行き場のない怒りと悲しみをぶつけた。そんな楽しいときと大変なときを一緒に過ごしたのが仲良しのあっちゃんとかなこだった。
でも六年生のときに、そんな二人と距離ができてしまった。授業のグループワークで、あっちゃんとかなこと別グループになってしまった私は、意図せず彼女たちのアイデアを「パクった」と勘違いされてしまったのだ。呼ばれる名前が水野ちゃんから水野さんになり、気まづい空気のまま小学校の卒業式を迎えた。
初めての卒業証書では本名と通名のどちらを書くか学校と話し合いがあったそうだ。記憶は曖昧だが、母が「日本人は卒業年月日を元号で書くのに、外国人は西暦にする差別があるらしい」などと騒いでいた気がする。
当時の私はそんなことはどうでもよくて、あっちゃんとかなこの誤解を解けないまま卒業してしまうことで頭がいっぱいだった。六年生の途中に親の都合で引っ越し、中学校は別々になることが決まっていた。
どうでもいいと思いながら、卒業証書を渡すために呼ばれた名前が水野幸美だったときは、少しほっとした。
卒業式が終わってクラスの何人かを交えてあっちゃんとかなこと一緒に写真を撮ることには成功した。でも心はザワついたままで、ぎこちない笑顔の写真が残った。
「中国人」であることを意識して隠しはじめたのは、中学校に入ってからだと思う。同じ小学校の人が誰もいない学区で、私が中国人であることを知らない場所での再スタートだった。
テレビのお笑い番組で中国語訛りの日本語を真似して笑いをとる芸人、中国に関するネガティブなテレビの報道、クラスメイトがしかめっつらをしながらに口にする「家の近くにいる中国人たちうるさいよなー」という声など、日常の些細なメッセージを敏感に受けとった。
「中国人だとバレたら仲良くしてもらえないかも」
「心を開いた友だちが離れていくあの寂しさをもう経験したくない」
いつしか「中国人=恥ずかしい」の方程式と、それとはまったく関係のない小学生の辛い思い出がひとつに混ざり合い、自分では区別ができなくなっていた。
母の作る水餃子は豚肉とセロリと隠し味にエビが入っている。いちから小麦粉をこねて作るプリプリの皮で包まれた茹でたてを食べると、口の中にほわっと幸せが広がる。中学生になってからは、誰とも一緒にその水餃子を食べることはなかった。