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北斎は将軍お付きの御庭番衆(徳川吉宗から始まる紀州藩の忍者。公儀隠密)

肉食動物のエサとなる動物は、風に向かって背中を向ける習性がある。それは体重が1トン近くある動物でも、ナキウサギでも同じである(中略)風に背を向けることで、わずかな死角に潜んで近づこうとするもののにおいを嗅ぎとれる(中略)風はウマの行動を変化させるという。つまり強風の中で、ウマは不安になって興奮しやすくなる(中略)捕食生物の動きを感知しにくくなり、不安感をつのらせるということだ(中略)群れる動物(中略)小屋の近くの風が当たりにくい場所に群れている場合は、悪天候が迫っていることを示す強いサインだ(中略)さまざまなタイプの雲が見えるなら天気は悪くなる(中略)太陽が沈みかけても雲が成長を止めないなら、悪天候がやってくるだろう(中略)乱層雲は、何時間も雨の毛布を降らせる(中略)ダークグレイの毛布の上に白の薄い巻雲がかかっているのが見えたなら、用心した方が良い。その毛布の中には、高く不安定で嵐を巻き起こす可能性のある雲が隠れている(中略)危険度がもっとも高いのは雨が到達するときである(中略)予期せぬ低温の突風を感じたら、それは暴風警報だ

当時、地位の高い男性は、地位の高いスポーツを楽しんだ。イギリス紳士は狩猟に没頭し、その場合には目立つモードを取り入れていた。彼らは馬に乗りやすいように、前が割れて後ろに燕尾のついたコートを着た。また、大きく、つばの垂れ下がる帽子は、つぶれたヘルメットのような形をした硬いシルクハットに置き換えられた。この狩猟用のいでたちが、いったん、当時の地位の高い人々のスポーツウェアとして確立されると、これはレジャーや働く必要のないことと同義になった。それは大胆な普段着として、当時の「若き血潮」にアピールし、猟の分野から一般の社会的用途にまで広がった(中略)さらに時代が進むと、それはその冒険的な趣を失い、一九世紀半ばまでには「シルクハットと燕尾服」を少し変形した服装が、通常の普段着になった。そのころになると、この服装がありふれたものになり、高い地位としての特性が失われてしまった。そこで、次なる「前衛的服装」として、新たなスポーツの分野が取り入れられなければならなかった。今度は、それは射撃、釣り、ゴルフへと変わった。これらはすべて金のかかるレジャーで、新しい服装のアイデアに対する申し分のない源となった。丈夫な射撃用ツイード服は、ほんのちょっと変わっただけでチェックの背広となり、ビリコックハットは山高帽となった。スポーツ用のもっとソフトな帽子は、中折帽になった。最初のうちは、背広はまだ大胆で非常に略式だと考えられていた。明らかにその地歩を失い始めていたとはいえ、正式の場合には、燕尾服だけが許されていた。ところが、派手なチェックをやめ、色と柄をずっと地味にしたために、背広はすぐさま燕尾服を昼間の社交的な催しからしめ出してしまった。結局、燕尾服は、「昼間の礼装モーニング」として、結婚式やほかのこれに類する儀式という形式ばった場合の服へ、また「夜会服」として、特別な夜のための時代遅れの黒白姿へ退却した。さらに無情にも背広は、燕尾服をこうしたとりでからも追いたて、いまでは燕尾服を、高級レストランのボーイ長の服装という遺物的地位に落としてしまったのだ。それに代わって、いたるところにタキシードが進出した。これは、背広を新たに時代遅れの黒と白の取り合わせへと変形したものである。背広がこの神聖な地位に到達するやいなや、それを新しく、より大胆なスポーツウェアに置き換えることが必要になり始めた。そのスポーツウェアとは、クロスカントリーで馬に駆け足させるときに、地位の高い人が着た乗馬用ジャケットのことであり、「スポーツジャケット」として知られる、日常のカジュアルウェアへとなっていった。そして、すぐに、長い社会的道筋をのぼり、会議室や重役室にまで達したのである。今はまだ、自己の地位を固く守っている背広と闘争中であるが、どちらを選ぼうとも、現代のビジネスマンは例外なく、以前にスポーツウェアであったものを着ているのだといえる。

八代将軍・徳川吉宗がペルシャ馬を注文して西洋馬術の指導を求め、象や孔雀を輸入して江戸まで運び、東海道の野次馬皆呆気にとられて象の巨体を眺めるという具合に、日本人大衆のあいだに連鎖的に好奇心が広がっていった。しかし吉宗は、まだ一七〇〇年代半ばの人であった(中略)二代将軍・徳川秀忠から続いた血統が途絶えた機に、いきなり傍系とも言える紀州和歌山藩の徳川家から将軍の座に躍り出たのが蘭癖大名の八代将軍・吉宗であった。以後、家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂まで全ての将軍が吉宗の直系子孫であり、幕末に水戸徳川家から迎えた最後の一五代将軍・徳川慶喜だけが異なる。

北斎も隠れキリシタンだった。さらに北斎には裏がある。北斎は将軍お付きの御庭番衆(徳川吉宗から始まる紀州藩の忍者。公儀隠密)を代々務めた川村家に生まれている。だから、蘭学者や陽明学者の動向を探るという隠密の活動も行っていただろう。

冨嶽三十六景 江戸日本橋/ 所蔵:シカゴ美術館

北斎の住まいとはどのようなものであったのか。門人の描いた図からは、散らかし放題の室内に、家財道具といえば炬燵や日蓮像を納めた蜜柑箱ぐらいという、飾り気のない質素な暮らしぶりがしのばれる(中略)黒山の人だかりのなかでイベントがはじまった。襷がけの北斎と門人は、米俵五個分の藁で造った大筆などを巧みに操り、数刻をかけて大達磨を描いていく。そのあまりの大きさに、櫓から用紙を吊り上げて見せるまで、見物人には何が描かれているのかわからなかったという。

晩年の北斎の肉筆画を考える上で無視できないものとして、彼の娘、お栄の存在がある。お栄(生没年不詳)は絵師の南沢等明に嫁いだものの離縁され、晩年の北斎と生活をともにした。手土産が入っていた籠や竹の皮などを部屋の隅に至るまで掃きだめのように積み上げた本所亀沢町の画室で、秋から初夏まで炬燵に潜って一心に絵を描く北斎を傍で見守るお栄の様子を、北斎晩年の弟子である露木為一が書き残している。彼女は、父の死まで看取り、後に親戚や門人の家を転々とし、やがて行方知れずとなった(中略)彼女は葛飾応為の画名を持つ絵師であり、「三曲合奏図」(ボストン美術館所蔵)、「廓中格子先図」(太田記念美術館所蔵)、「月下砧打図」など若干の肉筆画作品と、『女重宝記』などの版本挿絵を残している。その技量は父が「世の美人画は、阿栄(おえい)におよばざるなり。彼は妙に画きて、よく画法にかなへり」(『葛飾北斎伝』)と門人に語ったほどであり、事実、上記の諸作もきわめて高い描写技術を見せている。そうした高い技量を持つ絵師であったにもかかわらず、肉筆、版本ともに、今日に残る作品数がきわめて少ないのが不思議である(中略)「三曲合奏図」や「月下砧打図」に見られる、強く捩った姿態やあくの強い彩色など、北斎晩年の肉筆画の作風とよく似ており、久保田一洋氏が示唆するように(「北斎娘・応為栄女論──北斎肉筆画の大作に関する一考察」『浮世絵芸術』一一七号)、北斎とされる作品の中に彼女の筆になる代作が混じっている可能性を考慮する必要があるかもしれない。『葛飾北斎伝』も、「阿栄家に帰りて後再婚せず。応為と号し、父の業を助く」とあるが、それは画材の準備や部分的な彩色などの補助的なものにとどまらなかった可能性がある。

広重さんは北斎さん(※歌川広重より三十七歳年長)に敬意を表して、彼が亡くなるまで富士山シリーズを描くことはなかったともいわれています───東海道・山陽新幹線車内誌ひととき ※引用者加筆.

北斎は八十八歳まで生きますが(数え年では九十歳卒寿を迎えています)、人生の最後の一三年間で三七回も引っ越しています(中略)引っ越しで笑えるエピソードとしては、最後の九三回目の引越しです。新しく引っ越した先の家は、昔、北斎自身が暮らしていた家だったのですが、なんと自分が出て行った荒れ放題の状態のままだったのです。北斎自身もそれを見て何かを悟ったのか、それが最後の引っ越しになったそうです。

2017年10月、北斎展の会場で、私がこうした問題を取り上げざるを得なくなったそもそもの隠蔽工作の首謀者の一人(オーガニック卸問屋直営、調理指導者)とその付き人にばったり会い、その場で 「風化させるつもりですか?」と私は尋ねた。そんなやりとりの最中、何も知らない人たちが私たちの周りに集まり、問題の説明を求めてきた。何も知らない人たちがこの問題を理解するのに、どれだけの時間がかかるのだろうかと私は思った。何も知らない人たちのために、私は2011年7月からSNSで過去と現在を説明している。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/n72d84baa3ee5


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