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音楽が脳のミラーニューロン系を活性化させることで、ほかの人が思っていることや感じていることを認識し、理解しやすくなる

フランスの被差別民であるカゴについて考えよう。彼らに対する迫害は一一世紀に始まり、二〇世紀まで続いた。カゴは村の外に居住し、独特の服を着て、教会では別の席にすわり、単純労働をしなくてはならなかった。それでも、外見にも宗教的にも言葉にも名前にも差はなく、なぜ被差別民だったのか誰も知らない(中略)カゴを識別する方法も、誰も知らなかった。カゴはフランス革命のとき、自分たちの身分の証拠を破棄するために、庁舎にあった出生証明を燃やした(中略)メンタライジング(他者の心的状態を推論する)経路がとりわけ確実に活性化するのは、「もしこれが自分に起こっていたらどんな感じか」に集中することから、「彼らにとってどんな感じのはずか」に集中することに切り替えるときだ

作家で諷刺漫画家のジェームズ・サーバーは、六歳のとき、兄が投げたおもちゃの矢が右眼に突き刺さるという事故にあい、それ以来、右目が見えなくなった。これは悲しい出来事だったが、破滅的な影響はなく、たくさんの片眼の人と同じように、彼も世の中をうまくわたっていくことができた。しかしやっかいなことに、事故から何年かたって、左眼もしだいに衰えはじめ、三十五歳のときに完全に失明

情報分析官

作家のジェイムズ・サーバーは、『ダム決壊の日』という自伝的な文章を書いているが、そこに描かれたような連鎖反応からも、そういう結果が生じることがある。きっかけは一人の住民が逃げているのが目撃されたことだった(中略)「最初の半マイルのうちに、町の住民のほとんど全員が追い越していった」とサーバーは言う

DMNが活動するのは、私たちの精神活動が個人的回想や、自分が登場する空想物語にまつわるもののときだ(ジェームズ・サーバーの短編小説『The Secret life of Walter Mitty[邦題『虹をつかむ男』]の空想に耽る主人公の名をとり、「ウォルター・ミティ現象」とも呼ばれる)(中略)共感とは、照明の輝度をさまざまに変えられる(オン/オフスイッチとは対照的な)、調光スイッチのように働くものととらえることができる。共感反応の強さは、同一性の程度によって異なる。同一性が強い場合(自分たちと似たような見た目の人や、年齢、人種、宗派などの点で自らと重ね合わせやすい人)、完全な共感が生まれる(中略)また、共感する能力もすべての人に等しく備わっているわけではない。世の中には、共感しやすい人としにくい人がいる(中略)DMNが成熟するおかげで、子供は内省したり、彼ら自身、すなわち過去や未来への自己投影に関する自伝的自己を「メンタライジング」したりできるようになっていく(中略)DMNは人生に創造性やイノベーションをもたらす回路

DMNが活動を停止すると、脳は暴走する

情報分析官

サイコパスの特徴とされる「感情の切り離し」は、交渉調停人、救急外来の医者、人質開放の交渉人などにとっても、有益な資質である。また、「演出」を行うにはもうひとつの要素が必要とされる。何を言うべきかを心得ているといるということだ。サイコパス傾向のある人たちは、役者がセリフを覚えて自信を持ってしゃべるのと同じように、自分がしていることを正しいと信じて行動することができる。また、サイコパス能力を持つ人たちと役者には、それ以外にも「即興」という共通のスキルがある。物事がうまく運ばない時には、彼らはこの能力を使って切り抜けるのである。他の人に影響力を行使しようとする時に、「演出」を有利に使う方法がもうひとつある。それは舞台監督のように、人々に役を割り振ることである

努力の必要なメンタライジング系を使わずに済む道があるのなら、私たちはその手っ取り早い方法を使おうとする。その時、私たちが用いる方法が「ヒューリスティック」と呼ばれる思考方法である。この方法は過去の経験に基づいているために、「経験則」と同じような意味で用いられる。私たちはその経験則を使って、意思決定を簡単に行おうとする。たいていの場合は役に立ち、便利なうえにそれなりに正解だからだ。だが、それが時々、トラブルを引き起こす(中略)心理学者の言葉を借りれば、「自分以外の人間も考えを持ち、他者がその考えに基づいて行動する」という現象を理解できる能力を、「心の理論」を持つと言う。そしてその能力を用いて他者の心の状態を読み取り、相手の行動を理解したり、予測したりする姿勢を「メンタライジング」と呼ぶ(中略)メンタライジング系は努力しなければうまく働かない(中略)「他者の心の状態を理解する」(共感の第一ステップ)ためには、その時の状況に応じてミラー系かメンタライジング系、あるいは両方の働きが必要になる。

孔子の弟子たち(儒学者)と対立し、世界の知識人層を分裂させたのは墨家であった。

いかに日本人が儒教に洗脳されているかについて、繰り返し述べてきた。これも、儒教にどっぷり洗脳された人に、儒教は悪い、一つもいいことがないと覚醒を促すことで、見えなかったものを見えるようにするためだ。

情報分析官

日本国内にも厳然と存在するカースト制度(中略)たとえば、インドであれば、カースト上位のバラモン、クシャトリアに生まれなかった人は機会ゼロです。私は少し前に、ヒンディー語をしゃべる女性がNHKのアジアのテレビ番組に出ていたのをちらりと観る機会がありました。その女性は額の中央に赤い印をつけており、身なりや立ち居振る舞いからも明らかに典型的なバラモン出身でした。そのとき私は、NHKがカースト制度強化の手助けをしていると強く感じました。堂々とバラモンの格好で出演させるということは、カースト上位でなければテレビ番組に出演できないということを、天下に知らしめているのと同じことです。いまだにカースト制度を維持しているインドは例外的な国だと考えるかもしれませんが、表向き平等を装っている世界の国々においても、見えない身分制度はいまだにつづいています。日本においても、事情は同じです───苫米地英人博士(著書名失念)

『墨攻(ぼっこう)』 という、日中韓合作の映画があります(中略)主人公のアンディ・ラウが、たった1人で、ある小国を敵の大群から助ける物語です。

自分がその状況にいたらどういうふうになるか、真に迫ったシミュレーションを実行する。それができる能力こそ、映画や小説のような物語が人をのめり込ませ、人類のあらゆる文化に広がっている理由である。まったく知らない人のことであれ、架空の人物のことであれ、あなたは彼らの苦悶、彼らの恍惚を経験する。あなたは自在に彼らになり、彼らの人生を送り、彼らの立場に立つ。あなたは他人が苦しむのを見るとき、それは彼らの問題であって自分のことではないと、自分に言い聞かせようとするかもしれない───が、脳の奥深くのニューロンには、その差がわからない(中略)神経の話として、他人の痛みを感じるこの能力は、私たちが自分の立場を離れて相手の身になれる理由のひとつである。しかし、そもそもなぜ私たちにはこの能力があるのか? 進化の観点から考えて共感は有益なスキルだ。人が感じていることをうまく把握できたほうが、人が次にやることを正確に予測できる。 とはいえ、共感の正確さには限界があり、多くの場合、私たちはただ自分自身を他人に投影しているだけである。

墨子の学派(墨子を祖とする学派、墨家)は論理概念を重視し、なかでも必要十分条件、矛盾律(無矛盾性の原理)、排中律に着目していた。

情報分析官

「自分さがし」というのは、突き詰めて考えるなら、自分のキャラ(パーソナリティ)とそれに合った物語を創造することだ。おそらくは、人生にそれ以外の意味はないだろう(中略)「リア充」というのは、人生という舞台で自分のキャラを上手に演じているひとたち(中略)ジェームズ・ファロンはアメリカの著名な神経科学者(中略)ある日、ファロンは山と積まれたスキャン画像のなかに、サイコパスの特徴を顕著に示す脳を見つけた。それがあまりに異常だったので、ファロンは興味を感じて、それが誰のものかをスタッフに問い合わせた(プライバシー保護のためすべての画像はコード化されていた)。戻ってきた回答を見て、ファロンはなにかの間違いにちがいないと思った。なぜならその画像は、ファロン自身のものだったからだ。───できすぎだと思うだろうが、これは実話だ(中略)子どもたちにも聞いてみると、「お父さんは変わっているけど、そういうものだとあきらめていた」との答えが返ってきた(中略)このような「自分さがし」をしなくても、「成功者の多くはサイコである」と考えればファロンのケースをうまく説明できるだろう(中略)ファロンは「熱い認知」が共感を、「冷たい認知」がメンタライジングを担っているとする。ファロンの脳スキャン画像は、「熱い認知」の活動がきわめて低く、その代わり「冷たい認知」の活動が高かった。すなわち、共感の欠落を高いメンタライジング能力で補っていたのだ。ファロンが成功した理由は、高いメンタライジング能力だけではない。いちばんの要因はきわめて高い頭能を持っていたことで、もうひとつは高い外交性パーソナリティと軽躁気質ではないだろうか。ファロンはいつも刺激を求め、エネルギッシュで、友人からホームパーティに誘われても、もっと楽しいパーティがあるかもしれないとの理由で、当日になるまで出席の返事をしなかった(中略)ファロンは自分のことを「愉快な男」と思っていた(中略)友人はファロンを「面白い遊びに誘ってくれる男」と見ていた(中略)こうして見ると、現代社会の成功者のなかに、ファロンのようなタイプが思いのほか多いことに気づく。彼らは「サイコ」かもしれないが、けっして「邪悪」な存在ではないのだ

情報分析官

私たちの一部が時に望むものは、究極的には支配でき、私たち自身のものであると言うことのできる、自分たちのために働いてくれるラフプレイヤーなのである。奇妙に聞こえるが、ある意味では多くの者がサイコパスを求めている(中略)異端、異能の集団に属しているのがサイコパスである。彼らは、人類が存続するかぎり遺伝子プールに彼らの諸特性を保存しておくというコストがかかり、平時にあっては社会のはみ出し者であり、享楽的寄生者であるにせよ、しかし非常時においては窮地を脱し、繁殖しつづける可能性がある。結局のところ、果たして私はサイコパスなのであろうか? カテゴリー的に分けるとすると、その答えはノーである。しかしこれよりもよい答えは、私は向社会的サイコパスである(中略)私は怒りをコントロールすることが可能(中略)悪いカードの組み合わせをもって生まれてきても、それは養育によって実際に克服可能である(中略)私が天使でないことは確かである。しかし私はもっとワルになっていた可能性があったのだ。サイコパシーに関連する諸特性や遺伝子を社会から除去すべきだ、とは私は思わない。そんなことをすれば、社会は停滞し、私たちは排除されてしまう。

情報分析官

(※サイコパシーは)「セラピーは間違いなく説得だよ」と言うのです。「基本的に、人の信念体系を変えることだから。ようするに、心理療法士はプロの説得者なんだ。わたしはCBTでセラピーをおこなっているが、これは人の頭の中で、思考的枠組みの変化(パラダイム・シフト)を起すことだ───Kevin Dutton教授(著書名失念)※引用者加筆.

情報分析官

心の理論は、人間か動物にかかわらず、相手の立場になって、相手がどんな思いをしているのか想像できるかどうかが基準となってくる。アメリカには「相手を裁く前に相手の靴を履いて1マイル歩け」ということわざがある。わかりやすく言えば、相手を裁く前に、相手の立場に立って、相手がどんな思いをしているのか、どんな苦労をしているのか知った上で裁きなさいということである。これが「心の理論」の基本である(中略)世界を理解できるという状態に一番近づけるのは、どんな場合でも、エージェントたちが作り出す記述を通してでしかない。

情報分析官

「メンタライジング」は「相手の〝こころ〟を理解する能力」だ(中略)メンタライジングはヒトの社会性の基本だが、一部にはこの能力の低いひとがいて困難な人生を歩むことになる(中略)人間関係を最小限にすると同時に、日常生活から(対処しなくてはならない)イレギュラーな出来事をできるかぎり排除し、日課を厳密に定型化しようとする。これが自閉症やアスペルガー症候群に特有の孤独癖や強いこだわり(中略)サヴァン症候群で、脳のある機能が欠落すると、その空いたスペースを別の機能が使って能力を拡張する(中略)自閉症やアスペルガー症候群の特徴として「ウソがつけない」がある。ウソというのは、相手のこころを「理解」したうえで、それを自分にとって都合のいい方向に誘導しようとすることだ。そのためには、高度なメンタライジング能力が要求される(中略)メンタライジング能力には個人差があり、この能力が高い子どもは、そうでない子どもよりも人間関係にうまく対処でき、友だちが多いとの研究もある。これはよいことに思えるが、同時に、メンタライジングを覚えた子どもはウソをつくようになる(中略)メンタライジング能力は共同体のなかで生き延びるのに必須の能力(中略)アスペは高い共感力で他者とつながることができても、相手のこころを理解できないことで、きわめて困難な状況に置かれることになる(中略)なんらかの理由でメンタライジングの機能が損なわれているため、こころを「理解する」ことができず、人間関係は「火星の人類学者」として構築したデータベースに頼って論理的に推測するしかないのだ(中略)未知の惑星を訪れた人類学者のように、さまざまな状況で人がどのように反応するかの膨大なライブラリーをつくり、それをいつでもこころのなかで再生(中略)それに対して、相手の気持ちを「感じる」ことができなくても、こころを「理解する」ことができるなら、すくなくとも最低限の社会的なコミュニケーションは成立するだろう(中略)メンタライジング能力さえあれば、その場限りの(あるいは短期間の)人間関係なら問題なくこなせるのだ(中略)メンタライジング能力さえあれば社会(共同体)で生きていくこともできる(中略)アスペが「共感力は高いがメンタライジング能力が低い」ひとたちだとするならば、サイコは「メンタライジング能力は高いが共感力が低い」ひとたちのことだ(中略)サイコは〝障害〟ではなく、男のごくふつうのパーソナリティ(中略)「共感」と「メンタライジング」が異なる仕組み(中略)ヒトにしかない(とされている)能力がある。それが「メンタライジング」で、「こころの理論」とも呼ばれる。共感が「相手の気持ちを感じること」だとすれば、メンタライジングは「相手のこころを理解することだ」。───これを「情動的共感」と「認知的共感」と区別する

情報分析官

音楽が脳のミラーニューロン系を活性化させることで、ほかの人が思っていることや感じていることを認識し、理解しやすくなる

人間の脳には、「他人の幸せ」を「自分の幸せ」とする仕組みがある(中略)人はミラーニューロンにより、他人の喜ぶ姿を見て自分も喜ぶことができる(中略)人間の本当の幸せは「自分だけの幸せ」の中にありません。「他人の幸せ」が入ってこそ、人間らしい「幸せ」であるといえます。

脳が音楽による刺激を受けると、ニューロンはそれと完全に同期しながら、つまりそれに引き込まれつつ発火する(中略)ニューロンが音楽と同期して発火するため、音楽は脳のリズムを変える一つの手段(中略)脳障害の多くは、脳がリズムを失い、「リズム障害」的な様態で発火するために起こる

共感とは、誰かの立場になって、相手の心で感じ、相手の目でものごとを見ること(中略)共感を3つに分けて定義した。1つ目は「メンタライジング」で、他者の「心理状態やその根源にあるもの」を見いだしたり推論したりすること、2つ目は「経験の共有」で、これは「相手の内的な状態」を自分のものとしてとらえて共有すること、そして3つ目の「向社会的配慮」

共感とは相手の感情の周波数に自分の周波数を合わせる能力のことである。広範囲の帯域幅に向かって語りかけるのでは、効果は低いのだ。

ヒューリスティックスとは、わたしたちが経験則で判断を下すときにいつも無意識に行っている思考のショートカットのこと

ヒューリスティックという言葉は、「見つけた!」を意味するギリシャ語のユーレカを語源に持つ。

SF作家のアイザック・アシモフはかつて、「科学の世界で耳にする、新発見の前触れのひと言で一番わくわくするのは、『エウレカ!(わかった!)』ではなくて、『それはおかしいな・・・・・』だ」と書いているが、まさにそのとおりなのだ。

エイブラハム・リンカーンは戦場へ行く途中、封筒の裏側にゲティスバーグの演説でも不朽の名言を書きおろしたわけではない。ホワイトハウスの便箋で、何度も書き直されたその演説の草稿が発見されている。アルキメデスの「ユーレカの瞬間」についても本人の記述や、アルキメデスと同時代の人物の記述の中にもお風呂の中の話を裏づけるようなものは少しも見つかっていない。すでに学者はユーレカの話は嘘だと結論づけている。

「科学者に『わかった』というひらめきはないよ。それよりもむしろ、『おや、これは変だぞ』という瞬間を経験する」

人間は、脳の処理容量を節約するために、「ヒューリスティックな思考」を使う。自動的につまりマインドレスに行われる認知のショートカットである。ヒューリスティックな思考の一般的なやり方は、カテゴリーに分けて理解すること(中略)ヒューリスティックを使えば、意識的な脳に不要な労力を使わせることなく、時間と貴重な脳の認知空間を節約できる

独立した事実だけを覚えていても、あまり役に立たない。必要なのは、さまざまな事実を結びつけ、そこから意味を見出していく「格子状の思考」だ。これは「入手可能性ヒューリスティックス」、すなわち自分がすでにわかっていることだけに基づいて問題を解決しようとするのを回避するのに役立つ。

ヒューリスティックス、経験則、およびショートカットという用語を同じ意味で使用(中略)ヒューリスティックスは、分析の近道として機能する強力なツールである。問題のさまざまな要素を整理して、さらなる分析における効率的な道筋を決定するのに役立つ。もちろん、誤って適用すると危険な場合がある

可能性ヒューリスティックと同じように、「代表性ヒューリスティック」も、脳がベイズの法則による計算の代わりに使っている経験則の一つ(中略)ベイズ問題に正しい事前確立などない(中略)そもそも基準率のデータが存在しないという場合もある

数学的思考は論理的思考じゃないからね。数学は〝ひらめき〟だから芸術と同じ(中略)確率でいうとベイズの確率がひとつあって、コインは常に2分の1で表か裏が出る。100万回振っても次の一回はやっぱり2分の1の確率でしょ。でも、デンプスター・シェーファー理論以降の確率論は千万回とかやっていると、そのうち表か裏かどっちかに収束していくのね。要は一つ前の事象が次に影響を与えるんだよ(中略)だって現実問題としてベイズの確率なんかありえないよ。今日の天気は昨日の天気に影響されるに決まってるじゃん(笑)(中略)でしょ。前の日の状態が今日に影響を与えるのは当たり前だよ。ということは、すべての事象は独立ではありえないというデンプスター・シェーファー理論のほうが正しいわけだ。でも、確率論を学ぶときはいまだにベイズ理論を使わなきゃいけないんだぜ(中略)統計学もそうでしょ。P値(P-value)って、あれはベイズの話だからね。ということは「ベイズ確率でやりましょう」というルールなんだよ。でも、「本当に使う時はデンプスター・シェーファー数学を入れたほうがいいと思いますけど」っていっても、「それはルール違反だから」ってなっちゃう。これが論理だよ(中略)ルールの中で上手に泳ぐっていうのと、より理想的なルールを作るというのは別の話だからね(中略)両方やったらいいんだよ。別のものだから(中略)俺は好きなことで社会を変える側だから「儒教をやめろ」っていろんなところで言ってるわけだ。そのためには数学的な思考がいるわけね。なぜかというと新しいルールを提示しないといけないわだけから(中略)先に生まれた者に無条件で従えという儒教のルールをやめろって言ってるんだからね(中略)バラモン教でいえば、アートマンは永遠に変わらないと思ってる人ね。ちなみにアートマンとはバラモン教における宇宙の根本原理で、未来永劫変わらない固有の性質がひとりひとりの心の中にあるっていう考え方ね。だから、彼らの宗教では生まれ変わりが信じられるわけ。で、バラモンにはもうひとつブラフマンという根本原理もあって、これは普通の宗教でいえば神のことなんだよ。だから、バラモン教の人たちは個々のアートマンを神であるブラフマンと合一させることが究極のゴールなわけね。でもさ、生まれ変わりって、本当に生まれ変わりなの?って思わない(笑)?。

限定合理的な推論を使う。これをヒューリスティックといい、情動的な思考、情報空間における自由気ままな発想を行なっているから判断できる。この情報空間における自由気ままな発想こそが数学的思考である。論理的思考と数学的思考の決定的な違いはここ(中略)アブダクションは別名ヒューリスティックとも呼ばれ、インダクションでもなければディグダクションでもない人間的な推論(中略)ただし、アブダクションはあくまでも近似解であり、必ずしも正解を導き出すとは限らない。要はしばしば人間は間違えるということ

ヒューリスティクスとは、困難な問題に直面したときにかんたんに答えを見つけるための単純な手続きのことだ。こうしたヒューリスティクスは一方向に偏った予測可能なエラー(統計的バイアス)だけでなく、ノイズも生む(中略)ノイズの計測に必要なのは、標的の裏側から見ることだけ

学習することは除去すること(中略)階層的に抽象的規則を立てることは、貴重な学習時間を節約する(中略)この意味で、学習とは、規則どうしの内的階層構造を管理し、できるだけ早く、それまでの観察結果全体を要約する最も一般的な規則を推測しようとすることだと言える(中略)ベイズやラプラスが発見したのは何かというと、要するに正しく推論する方法だった。それはどんなに薄弱な観察でもすべてたどり、最もありそうな原因にさかのぼるべく、確率によって推理することだ

重要な事柄についてよりよい判断をしたいと望むなら、ノイズを減らす(中略)ノイズを発見するには統計的に探求しなければならない(中略)人間の直感には統計的思考が欠けている(中略)よい判断を下せるのは、その職業に必要な専門的スキル、知性、ある種の認知スタイル、とくに積極的に開かれた思考態度を備えた人(中略)教育におけるノイズを減らしたいなら、かなりの支出を覚悟しなければならない(中略)ノイズを排除するには、たしかにコストがかかる。だがコストをかけるだけの価値はある

私たちの直感的反応は、系統立てられるようには設計されなかった。さらに、かならずしも真に道徳的な目的に資するようには設計されなかった(※カメラの)オートモードはヒューリスティクスだ。すなわち、たいていの場合は「正しい」答えを出す効率的なアルゴリズムだが、つねに正しい答えを出すわけではない。「正しい」に「」をつけたのは、オートモードは設計された通りに働いているときでさえ、真に道徳的な意味で「正しい」とはかぎらないからだ。直感的反応の中には、自分の遺伝子を広めるという生物学上の命令を反映しているに過ぎないものもあるかもしれない。たとえば、そのために私たちは、自分自身や自分の部族を他の者よりひいきする(中略)(※カメラの)オートモードは非常に効率的だが、柔軟性にいまひとつ欠ける。マニュアルモードはその逆だ。しかし両方を備えていれば、それぞれのよいところを利用できる。ただし、手動で調節した方がいいのはどんなときで、全自動がいいのはいつかを、心得ていればの話だ ※引用者加筆.

ウェイファインディングは生死に関わる技能(中略)ヒトの脳は海馬(※手動で難しいメンタライジング系)か尾状核(※オートモードのヒューリスティック系)のどちらかを使っているが、そのふたつの領域を同時にはたらかせることは絶対にない。つまり、一方を多く使うほど、他方を使わなくなるということだ。そして、特定の筋肉を鍛えるとその代償として別の筋肉が弱くなるように、特定の回路を長期間にわたって重用すると、それがほかよりも優先されるようになる(中略)このふたつの戦略のあいだには負の相関性がある(中略)(※ヒューリスティック系では)積極的な注意力を使わずに、手がかりに反応して信号───右か左か───を出す。尾状核がしているのは、それだけだ(中略)絶えず海馬よりも尾状核を優先しつづけたら、どうなるだろうか?そして、その優先傾向が、集団のなかの一部の個人だけでなく、もっと大規模に蔓延しているのだとしたら?(中略)現在の生活条件は、海馬をあまりはたらかせない方向にわたしたちを導く一方で、尾状核への依存に拍車をかけているのではないか(中略)海馬が縮小すると、認知・感情面での障害や行動の問題を起こしやすくなる。さらに、海馬を使わない刺激反応ナビゲーション戦略への過度の依存は、一見すると無関係だが有害な多くの行動と結びついている可能性もある。尾状核の回路は線条体に位置している(中略)海馬にある場所細胞・頭方位細胞(※頭が特定の方向を向いたときにだけ発火。境界細胞は、障害物やギャップ、階段といった境界となりうるものまでの距離とその方向を伝えているようだ)・格子細胞(※環境中で発火する格子細胞は、六角形の格子が全方向に広がるという興味深いパターンをとる。また格子細胞は場所細胞のシナプスひとつぶん上流にある。環境と自発運動に伴う情報をもとに距離に関する情報を生成し、さまざまなスケールで空間を表象していると考えられている。格子細胞は、経路積分に使われる情報を場所細胞に送る一方で、場所細胞から情報を受け取ってもいるようだ)などが、脳のなかに認知地図を作り出している ※引用者加筆.

DMNは、大脳のなかの進化的に新しい部位である大脳皮質から生じ、内省など高次の「メタ認知」プロセスでもっとも活発化する

情報分析官

形而上学がすべての学問の土台(中略)形而上学の基礎を作ったアリストテレス(中略)本当はメタフィジカは「全学問の土台の学問」(中略)メタはアンダースタンド understand です。「下に立つもの」という意味(※ドイツ語では悟性、理解力)(中略)メタフィジカの「メタ(※メタはベース、アンダー、under・基礎の理論・土台)」meta- は、普通言われているような物質世界の「上」とか「前」とか「後」ではない。meta- は「下」である。フィジカ(※フィジカ、フィジクスはメタフィジカより下位の学問。物理学・物質学・世界を作っている物たちのこと。フィジカを自然学とするのは誤訳)の下に有る土台のことだ(中略)メタ meta- は、この現実の世界 physica の下に有って、それを支える基礎、土台のことである ※引用者加筆.

情報分析官

DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)はいわば、脳が特定のタスクに集中していないときのニュートラルギアのように機能する

科学者は、自然によって生まれる「ソフトな魅惑」は、脳の「デフォルト・モード・ネットワーク」として知られるものに働きかけるとの理論を立てています。このネットワークが活性化したとき、私たちはゆったりした連想をしやすい状態になります。特定のタスクに集中しておらず、意外なつながりや洞察を受け入れやすい状態です。自然の中では、意志を決定したり何かを選択したりするよう求められることは、それほどないため、心は、思考が連れて行ってくれるところへと自由に向かうようになります(中略)こうしたポジティブな感情のおかげで、もっと広い視野と心で考えられる

情報分析官

過酷な環境に身を置くことで、余計なことが考えられなくなり、DMNの消費を抑えることができます。だから、脳疲労が取れます(中略)DMNは、ぼーっとしている時、すなわち、脳が意識的に活動していない時に働いてしまう脳回路(中略)CENは、集中して仕事を行なっている時に活性化する脳回路(中略)DMNとCENは同時に活性化することはなく、一方が活性化するともう一方は不活性化

情報分析官

何かに集中しているときは「意思」のネットワークCEN(Central Executive Network)が働いている状態です。別名ワーキングメモリーネットワーク(中略)CENとシーソーのような関係にあるのがDMN(Default Mode Network)です。DMNはぼーっと考え事をしていたり、記憶を整理したり、ひらめくときに働いているネットワーク

情報分析官

休止時間や入眠期の脳のデフォルトモードネットワーク(DMN、具体的な課題に集中していないときに活発になる脳の領域)は、突出した経験や懸念を見つけだし、睡眠の後半に処理できるよう標識をつけている(中略)DMNの発見によって、脳がけっして休息しない事実があらためて理解された(中略)DMNを構成する領域をよく観察すると、環境に重大な変化がないか監視して、危険を察知するサブネットワークの存在が明らかになった。確かに、安全の確保はDMNのひとつの働きだろう。ところが、ほかにもサブネットワークがあることがわかってきた(中略)どれもマインドワンダリングに関係(中略)となるとマインドワンダリングと、DMNの活発化に関連があると考えるのは自然な流れだ。おそらくこれがDMNのふたつめの働きである。ただしDMNは特定の場所があるわけではなく、DMNと呼べる領域は、その前に何をしていたかで変化(中略)(※通常DMNは)休息時に観察される。同じ休息でも、課題をこなしたあとのDMNに変化が起きたのだ。さらに重要なことに、DMNの変化が大きいほど翌日の成績は向上していた。まるで眠りについた脳に、DMNが指揮を行ったかのようだ。※引用者加筆.

通常、人間の脳は、周囲のことに注意を払いつつ、多少はマインド・ワンダリングもできる(中略)車を運転しながらとりとめもない夢想にふける、というように(中略)瞑想の基本編では、「マインド・ワンダリングに気づいたときには、心の集中の焦点を戻すようにしましょう」と教えている。ここで問題なのは、「気づいたときは」という部分だ。心が徘徊しはじめるときは、だいたい自分では気づかないものなのだ(中略)マインド・ワンダリングにふけっているときは、そもそもそのことに気づいていない場合がほとんどだからだ(中略)オールダス・ハクスリーのユートピア小説 『島』には、訓練されたオウムが登場し、島民のいるところへ飛んでいっては、「いま、ここ、です。みなさん、いま、ここ、ですよ!」と鳴く。その声を聞くと、牧歌的な島民たちは白昼夢から醒めて、いままさに目の前で起こっている事象に集中しなおすのである(中略)ハクスリーのオウムのようにマインド・ワンダリングを災いの元凶とみなす霊的習慣が少なくない一方で、進化心理学者たちはマインド・ワンダリングを大きな知的進化と見る。どちらにも真理がある(中略)「いま、ここ」で進行中ではないことをじっくり考える(認知科学者はこれを「状況非依存思考」と呼ぶ)ためには、五感で感じていることと頭の中で考えていることを切り離さなくてはならない。

人間の思考の半分ほどが夢想であるという事実そのものからしても、夢想にふける精神は何らかの利点があると考えるべきだろう。「マインド・ワンダリング (心の徘徊)」、すなわち精神活動の対象から注意がそれて徘徊する心の動きについて、われわれはそろそろ考え方を改めるべきかもしれない。マインド・ワンダリングは意味のあることから遠ざかる思考ではなくて、意味のあることへ、向かっていく思考である、と

情報分析官

マインドワンダリングによりさまざまな認知的処理が可能になり、それが「日々の生活をナビゲートする際に役立っている可能性がある

ヒューリスティックが現在の知識量だとすれば、メンタライジングは知識量に微表情を分析する能力、非言語行動分析を加えたもの。4歳くらいから多くの事実を教えておきませんと、微表情分析、非言語行動分析を身につけるのは難しいが、大人になってから身につけようと思うのなら、(1)多くの事実と答えを先取りして理解する、(2)原発事故やワクチン騒動などの際、テレビの生番組出演の太鼓持ちから嘘反応を学ぶなど。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/n8783e9e9453f

https://note.com/wandering_1234/n/n8f4837b2dabb


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