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白内障患者特有の典型的な見え方の変化

モネの絵画における色彩や形態の変化は、「白内障患者特有の典型的な見え方の変化」だと断言できる(中略)モネは白内障が進行した1918年の手紙で、「もはや、色もわからず、赤も土色にしか見えない。桃色や中間色は全く見えない。青や紫や濃い緑は、黒く見える」という苦悩を書き綴っています。モネの晩年の絵画の変化が白内障の影響による変化だったことを、モネ本人が述べているのです(中略)(※モネの友人でフランス首相の)クレマンソーの励ましもあり、絵を描けるようにと、1923年にパリの眼科医クーテラ医師から、右目だけの白内障手術を受けることになったのです(中略)当時の手術には、現代とは比べるべくもない問題がありましたが、モネはそれでも、メガネを装用し、さらに見え方の訓練を行い、少しずつ慣れていきました(中略)見え方の練習をして、またメガネもよいものに変えたりしながら、制作を進めました。※引用者加筆.

モネ(引用者撮影)

のちにモネはこう回想している。「マネが私をバティニョール界隈のカフェの毎夕の集まりに誘ってくれた。 ・・・・・・そこで私はファンタン=ラトゥール、セザンヌ、ドガ、ゾラなど、多くの人々に出会った。彼らと際限なく意見を交わしながら話し合うのはじつに面白かった」。

モネ(引用者撮影)

エミール・ゾラは、芸術とは「気質を通して見える自然の一片である」と定義した。本書で繰り返し見てきたように、この定義は科学にも十分当てはまる(中略)科学が数ある「真実」のうちのひとつにすぎないと考える必要はないが、科学は間違いなく人間の活動であり、従って人間の欠点が刻み込まれている。

モネ(引用者撮影)

水辺の絵は気持ちいいが、そもそも水そのものが気持ちいい。 広い水面が目の前にあると、気持ちが落ち着く(中略)印象派の絵の中を流れている水は、ほとんどがセーヌ河だ。パリの真ん中を流れて、市街地を抜けて田園地帯を進み、最後は大西洋に注ぎ込む。モネもシスレーもセーヌ河沿いを転々としながら絵を描いている(中略)人間は見えないものが見えたときに、感動を覚える。自分の目が活性を帯びてくる。印象派の絵の感動は何といってもそこにあるのだ。印象派の画家たちが水辺を好んで描いたのは、空気を描くというあまりにも捉えどころのない、意識しにくいものへ近づくための、一つのステップだったのではないか。

モネ(引用者撮影)

ヨンキントが初めてノルマンディ海岸へ旅行したのは、1847年、故国オランダからフランスへ移った1年後のことである。 しかし彼が友人のウジューヌ・ブーダンや若きクロード・モネと行動を共にするようになるのは、1860年代、オンフルールなどのノルマンディの港へ足繁く訪れるようになってからである。ヨンキントの仕事は若きモネに大きな影響を与えたが、実のところ、彼自身の50年以上に及ぶ絵画歴は、モネの良き師であったという役割の陰に大部分隠れてしまっている(中略)ウジューヌ・ブーダン(※最終的には成功を納め長い生涯を送る。シャルル・ドービニー、コローから影響を受ける)は、彼の親友であり仲間である ヨハン・ヨンキントと同じく、クロード・モネの初期の指導者であり、モネの興味を風景画に向けさせたとされている。※引用者加筆.

モネ(引用者撮影)

人はある運命に導かれるとき、目に見えない強い力が働いたような小さな偶然の重なりや、他人の発言や行動によって決定づけられることがある(中略)いわゆる、「気になる相手」というものは、色恋の相手だけではないのである。控えめなブーダンは、人間との付き合いより自然の中で独り過ごすことを好んだが、このときはなぜか乗り気でなかったモネを根気強く口説いたのだった。晩年になってもモネは、「自分が画家になれたのも、ブーダンのおかげだ」と語っている。

モネ(引用者撮影)

パリは、モネやロダンやベルリオーズが活躍した都市であり、カンカン踊りと歌い手の街であり、ヴィクトル・ユゴーとヘミングウェイが愛した街である。

モネ(引用者撮影)

かつてブーダンが教えてくれた戸外写生。モネは仲間と野外にキャンバスを立て、奔放なタッチで盛んに明るい色彩をつむぎ出した。とくにルノワールとは、好んで制作活動を共にした(中略)ブーダンは大自然の秘密を知っていた。赤々と燃える太陽の匂い、海を渡る風のささやき、そして、光や大気の中に息づく生命の香り・・・・・・。「ブーダンは誠意をもってそれらを教えてくれ、私の眼はついに開かれた。私は本当の自然を理解するようになり、愛することを知った。そのとき私は、十八歳だった」───モネ(中略)妻カミーユを失った後の一八八〇年代、モネはとりつかれたように旅をする(中略)この時期、モネは旅先で文豪モーパッサンと知り合い、親交を結ぶが、そのモーパッサンは、当時のモネをこう描写している。「実際、彼は画家というより狩人であった」(中略)一八七四年、ついに独自の展覧会を開く。だが、この展覧会は若い画家たちに苦い果実をもたらすだけの結果に終わってしまった。悪評粉々。批評家は出品されたモネの作品『印象・日の出』をもじって、このグループを「印象派」と命名した(中略)モネは仲間の一人にあてて、こう書き送っている。「自分の眼が捉え、理解したことを描くしかないのだ。自然を見ていると、すべてを描けるような、何でもできるような気がする。

モネ(引用者撮影)

極貧のなか、モネは仲間とも離れてセーヌ川流域で制作を続ける。

カンディンスキーは「回想」の中で、学生時代にモスクワで行われたフランス印象派展のモネの「積み藁」を観たときに受けたショックを次のように書き止めている。「その絵が積藁を描いたものということを私に教えてくれたのは、カタログであった。私は、積藁であることが識別できなかった。

モネ(引用者撮影)

モネは庭園の絵画作品にカドミウムイエローを使った

モネ(引用者撮影)

モネは一文無しで、ルノワールの持ってきてくれたパンでかろうじて命をつないだこともあった。そのルノワールも、切手を買う金がなくて手紙ひとつ出せないほどだった(中略)クロード・モネは強靭な意志の持ち主で、夢中になるとまわりが見えなくなる男だった。生家は食料品店だったため、他の仲間とくらべて充分な教育は受けていない。そんなモネの親友が、「のんきな悪ガキ」と評されたピエール=オーギュスト・ルノワールだ。ルノワールはモネの肖像画を一一点も描いている。そんな画家たちを束ね、羅針盤の役目を引きうけていたのがカミーユ・ピサロ(中略)社会の本流からはずれると不利なことも多いが、それが逆に利点になるのだ。ピサロ、モネ、ルノワール、ゼザンヌは、権威あるサロンに合格するよりも、好きなように描いた絵を、キャプシーヌ大通りの狭い部屋で見てもらうほうを選んだ(中略)やがて世間も彼らの運動に注目(中略)モネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、ピサロたちは画家として天才的だっただけでなく、たぐいまれな知恵を持っていた。世間が崇めてやまない権威に振りまわされることなく、その本質を見抜いていたのだ。

モネ(引用者撮影)

ル・アーブルの港町を描いたモネの作品《印象、日の出》のタイトルが、嘲笑の言葉となりグループ名の由来となったのも、皮肉な運命であった。

モネ(引用者撮影)

モネの出品作のタイトルの単純さに驚いたエドモン(※ルノワールの弟)が、そのことを指摘した。その結果、出品した12点の中で故郷ル・アーブルの朝の港の風景を描いた『日の出』という作品には、モネ自身が「印象」をつけ足して、『印象、日の出』になったのだ(中略)アメリカでの人気を博したモネ(中略)元来アメリカ人は、新しいものを受け入れる度量がフランス人の富裕層よりもある。そして、アメリカの富裕層はフランスの場合と違い、そのほとんどがプロテスタントかユダヤ人であったため、宗教的題材がない印象派を受け入れやすい土壌となったのである(中略)フランスもオーストリアもカトリックが中心の社会なのである。アメリカ人がモネに夢中になることはすなわち、経済的な成功をモネにもたらす結果となった(中略)経済的に余裕を持ったモネは、傾倒するドービニーのアトリエ船「ボタン号」を真似て、小さなボートを購入してそれをアトリエ船に改造した。尊敬する人物と同じことをしたがるのは、いつの時代も洋の東西を問わず同じである。※引用者加筆.

モネ(引用者撮影)

三〇歳秋、戦争を避けてロンドンへ行きドービニーに再会、彼の紹介でポール・デュラン=リュエルに会う。(※クールベの絵を売っていた人がポール・デュラン=リュエル)※引用者加筆.

モネ(引用者撮影)

日常的に飲むワインが1本1フランほどだった1875年、ルノワール、モネ、シスレーらが企画した競売会では、印象派の絵画は1点数十フランから200フラン程度の安値で売られた。初期から印象派の価値を認めて支援した画商のポール・デュラン=リュエルは、額縁が絵よりも高いものにならないよう気を遣ったほどだ(中略)モネは雲の流れを絵筆でつまむようにカンヴァスにそっと置きました」印象派は、光りを追って制作した画家を称する言葉で、「流派」ではない。だから印象派に属する作家の作品は多様だ。モネは光りと水の反射に熱心し、ルノワールは人体の上で光りを捉えた。ピサロは土の光りを、シスレーは岩やセーヌ川の上の光りを追う。

モネは画学生時代から、親友のルノワールとカンヴァスを並べて、同じ風景を描くことが度々あった(中略)この(※サンラザール)駅はパリのターミナル駅のひとつで、フランス北部ノルマンディーの港町ル・アーブルに実家を持ち、さらに当時、パリ北方のアルジャントゥイユに暮らしていたモネにとっては、慣れしたしんだ駅だった(中略)実際には駅に停車中の機関車が、このようにもくもくと煙を上げることはない(中略)この作品の制作現場に居合わせた親友のルノワールは、モネが駅長と掛け合ってわざわざ蒸気を出させたことや、光の具合が良くなるのを待つために列車の出発を30分遅らせたことなどを後年語っている。古き良き時代であった。※引用者加筆.

1889年はエッフェル塔で名高いパリ万国博覧会が開かれた年であり、フランス革命100年祭でもあった。しかし芸術の分野では、モネとロダン2人展が開かれた年として記憶される(モネは70枚の絵画を、ロダンは32点の石膏像を出店した)。絵画と彫刻の分野でそれぞれ革新的な作品を残したモネとロダンは、生涯を通じて友情を結んだ

ロダン(引用者撮影)

老眼になる前に速読(要点を理解すること)を身につければ、ある程度の読書はできる。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/nbf551fb06607

https://note.com/wandering_1234/n/nad3378941728

https://note.com/wandering_1234/n/nfdd72dd8b71a


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