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授業のオンライン化に取り組み始めてから少しして思ったこと

モンゴルは9月の新学期まで休校決定。まさかの「学生と会わずに帰国」が現実となる。世界のニュース、日本のニュースを見るにつけ、本当に恵まれていると感謝の毎日。

オンライン授業も3か月目に入り、これまで1か月ずつの延長を繰り返して、やみくもに突き進んできた感があるけれど、ちょっとここで気が付いたことを残しておく(たいして多くはない)。


ビデオのいいところ

やむを得ず選択した[文法授業のPPTスライドに、音声を入れて動画にする]という方法。これはそのまま、漢字・語彙の解説ビデオや記述授業ビデオなどに引き継がれているんだけれども、欠点は多いし、改善の余地もあると思っているけど(ビデオの長さとか、簡潔さとか、課題や同期型との連携とか)、非常に単純な長所に目が向いていなかった。

この間、元同僚とZOOM飲み会(流行に乗りたくないけど、海外各地に散っているんだからしょうがない)で

「今年の2年生、すごくできるの。オンライン授業になって、わかりにくいだろうに、課題の指示とか間違わない。言った通りに設定して出してくる。すごい!!去年だったら、こうはいかなかったと思うよ、対面授業で指示しても通じないんだからさ(苦笑)。」
「そうなんだ。ビデオだってこともあるかもね。何回も見直せるし...」

頭に電球がつく勢いで納得。

学生がよく使うプラットフォーム

オンライン授業になる前から、連絡事項や学生の欠席連絡等にFacebookを使っている。モンゴルのFB率はすごく高いから必然的にそうなるのもわかるんだけど、実はすごく嫌い。学生が150人ほどの大所帯でティームティーチングとなると、とにかく面倒。他に最適化したツールがたくさんあるのにぃ...とぶつぶつ言いながら宿題チェック。そしてエクセルに入力。でも反対しているわけでもない。学生が入学したときからずっと使ってきたツールだから、新しいものに切り替えて混乱をきたすよりも...とも思う(そもそも1か月だし...と思っていたこともある)。

さて、最近新しい試みとして、Flipgrid というツールでスピーキング練習を始めた。同僚の先生が提案してくれて、私もすごくいいと思ったし、実はプライベートで私も使おうかと画策したくらい。2分程度の動画を簡単にポップにアップロードできて、見た人はその動画に動画で返信できるというもの。見た目も若者ウケしそうな感じ。

ところが、予想に反して学生からの投稿が少ない。一番の原因はアプリの重さかな、と当初は思った。私のiphoneでも、アップロードされた動画がなかなか再生されなくて、学生に返信する作業中に心が折れることがかなりあった。でも自分で動画をアップするだけなら問題なくできるし、他の先生に聞いても、そこまで重い印象は受けていないらしい。じゃあ、どうしてだろう。

いろいろ原因はあると思うんだけど(他の科目で忙しいとか、ビデオだと顔洗ったり、髪を整えたり、服着替えたり、面倒くさいとか、スピーキングがあまり好きじゃないとか、そもそも強制じゃないものはやらない主義とか)

「わざわざアプリを立ち上げるのが面倒」という心理かもしれない

と思った。今まで使ったことがないアプリを、わざわざ日本語を話すためだけに立ち上げる(しかもちょっと遅い)という作業は、なんというか心のハードルがちょっと邪魔をするのではないか(身に覚えが大有り)。「やりたくない」とか「面倒くさい」というはっきりしたものではなく、「ま、明日でいっか」と指がインスタにずれたり、FBへ滑ったり。ちょっとした心の重みがある。それこそ強制だったらやるけど... 的な。

そこで、学生がよく使うプラットフォームの登場である。日常的によく使っているツールを使うということが、実はすごく大きな違いを生むのかもしれない。

定例会議は防災訓練のようなもの

少しさかのぼって会社員時代、小さな設計事務所だったが定例会議があった。打ち合わせ机に集まって、資料を見ながら、その月の受注状況や、各請負物件の進捗状況、先の見通し等を話し合う。話し合うと書いたが、実態は社長が1人で喋っているだけ(進捗は各担当者が報告するけれども)。必要とわかっていても、なんとなく無駄な時間が流れていく感覚(納品前の物件を抱えていれば尚更)。

この間、自宅で仕事をしながら、急にそれを思い出して、ふと思った。
......... 定例会議って、防災訓練のようなものだな。

実は普段、さほど報告しなきゃいけないこと、話し合うことってない。ティームティーチングだって、相手と話せば済むことで、わざわざ全体で話し合う必要もない。同じ年間スケジュール、同じメンバーでやっていれば、決まりきったことが多いし、人数が少なければ簡単に教員室でシェアできる。それでも定例会議を行っていたら... と考えた。

一見不必要に見える定例会議。でもこれを行っていれば、何か起きたとき情報が共有されやすい。小さいことも、決まっていないことも、かすかな懸念でも、とりあえず共有しておこうとするだろう。共有する場がすでに作られていて、なおかつ定期的に訓練されているわけだから。いざというときに力を発揮するという点で「防災訓練みたい」と一人思ったステイホームのとある1日。