自他境界線と依存の話
これは私がただ考えただけのことで、心理学とか精神学とかに基づいたものではないから正しくないかもしれないけれど、ただのメモ書きとして。
自分と他人は違う生き物である。ということを私が感覚として捉えることができたのは、つい最近のことだ。
たとえば同じ事象を目にして、それに対して二者が抱く印象や所感は100%同じものになりはしない。この違いは、それぞれが生きてきた環境、経験してきたこと、それらをもとにして形作られた価値観、などの違いから来る。要するに、同じものを見る時、それを同じ角度で同じように見ることは不可能なのである。
これを理解して、尚且つ二者それぞれのものの見方に優劣をつけることなく、どちらも正解なのだと認めることを、私は自分と他人の間に線を引くことだと思っている。壁ではなく、線。私も正しい、あなたも正しい、でも全く同じではない、というスタンス。これが、健全な人間関係の土台となるものだと考えている。
ただ、周りの全ての人間に対して線を引いていくと、その線でできた図形の内側には、私1人しかいなくなる。この状態は自然なことなのだ。だって私という人間と全く同じ人間などいないということが正しく証明されているのだから。
でも以前の私は、(というか今もまあそうだけど、)この状態がどうしようもなく寂しかった。ひとり。ひとりぼっち。こちら側とあちら側には壁があるわけではないから、私はまったくもって孤独ではないのに、自分と他人が違う人間であり、まったく同じ感覚を共有できるわけではないことを意味するこの線が、怖かった。
だから、特定の誰かをこちら側に引き摺り込もうとした。「私と同じ目線で、同じ角度で、同じものを見て、同じ感想を持ってよ!!」と。今思えばこれが、"依存"の正体だったのだと思う。私が抱いている感覚を等しく共有できないことがひどく不安で、1ミリのズレもなく伝わってほしくて、本来境界線のこちら側とあちら側にいることで健全に成り立っていた関係を壊してまで、自分のテリトリーに無理やり連れ込んでしまった。
当然、もといた場所から無理に引っ張り出された相手は、私のテリトリーを居心地悪く感じただろう。最終的にはみんな出て行ってしまった。そうしてまた1人を持て余し、寂しさを埋めるようにまた誰かを連れて来る。依存心の強さの最たる理由はこの「寂しさ」だろう。
ならばこの状態を「寂しい」と思わないように努めればいい。ただ足元に線が引かれているだけのこと。互いの顔は見えるし、泣いていればそれを隠さない限り気づいてくれる人だっているはずだ。別に近づいてはいけないわけではなく、互いの領域に無理に踏み込まなければいいだけであって、近寄りたいのならば両者が線の上に立って話し込んだっていい。精神的に健康な人間関係のひとつの解は、このような形ではないだろうか。
ここまで考えてはみたものの、実践できているわけではない。数年前にあらゆる人間関係から背を向けたおかげで、私の周りにはそもそも人があまりいない。けれど少数でも今周りにいる人たちとの間にうまく線を引けるようになりたい。ひとりぼっちでない1人の枠の中を満足に過ごせるように。誰のことも引き摺り込まなくて済むように。そんな大人に、なりたいと思っています。