【二次創作】夜行 私的掌篇「犬吠」
21:05
もしかしたら、彼女もあの絵を見たのかもしれない。目の前の景色を見ながら、自分は学校の踊り場に飾られている銅版画を思い出していた。
17:40
もう耐えられないと、そう思った。しんと静まり返った部屋を振り返る。奥に続く暗闇。私は目を瞑り、両手で玄関扉を押さえて、閉じて、施錠をした。暗闇が出てこないように。
18:00
電車に揺られながら、一人暮らしが家を飛び出すことは家出というのだろうか、などと益体もないことを考える。自分のお気に入りの頒布鞄に手を添える。中身はブルーシートとペグ、伸縮棒、ライト、後はカイロが入っている。
18:50
乗り換えを待つ間に自分のSNSに投稿をした。反応は薄い。元々見る用のアカウントだったし、いつもこんなものだ。呟いてもひとり、とどこかで聞いたようなフレーズを口ずさむ。
20:30
一旦終着駅には着いたが、目指すのは更に先だ。私はすぐに私鉄のホームに移り、2両編成のレトロな車両に乗り換える。夜闇に紛れて車窓を流れていく住宅街や畑。冬の海風に吹かれざわめく木々のトンネルも今は色を失ってしまっていた。
21:00
終点の一つ手前で降りた。時刻は9時を回っている。もう、戻りの電車はない。シャッターの閉じた土産物屋を横目に歩き出す。真正面から吹き付ける風が冷たい。海沿いにしばらく進むと、道がタイルに舗装されたものへと変わる。現れる灯台。ここが私の目的地、犬吠埼だ。
21:10
ここの所、寝ても起きても、働いても遊んでも、ただ疲れるだけだった。一人は嫌なくせに、誰とも居たくなかった。いや、居られなかった。みんなが何であんなに楽しそうにしていられるのかが分からなかった。外から見ていることしか、できなかった。
21:15
誰かに期待することが、今の自分には出来ない。一年前の「あの頃」のように、無邪気に、誰かのために何かをする事に全力を出せない。報われなくてもその人のためになるなら、なんて考えていられたのは幸せだった。報われず、無駄に終わったのだから。
21:20
自分という存在は、何を言っても何をしても何を思っても、どこにも誰の中にも残らず、続くことがない。おかしいのは他人でも世界でもなく自分だ。腐り切り沈み切った思考に溺れていく息苦しさに我慢できなくなり、助かりたい気持ちと自滅したい気持ちがないまぜになった結果、私は今ここにいる。
21:25
「真冬の海辺で一晩過ごしてギリギリ死なない装備を検証してくる」
先程SNSに上げた投稿に反応は未だない。今頃みんなは暖かい屋内で思い思いに楽しんでいるのだろう。誰かと、繋がっているのだろう。自分は灯台とその向こうに広がる海原を見た。
21:30
やはりこの景色はあの絵と同じだ。学校の踊り場に飾られている銅版画を私は思い返した。右手に灯台、左手は開けておりその先に海岸線とわずかに海が見えている。灯台の手前には円筒ポストが置いてあり、そのポストへ向かうように背中を向けて立つ女性が描かれていた。女性の顔は見えない。
21:35
あの絵は題名が不明だった。岸田道生という作者が各地を描いた連作『夜行』の一枚らしいのだが、作品名が掠れてしまって読めないのだ。以前自分が美術の先生に話題を振った際、熱っぽく語ってくれたことを思い出す。何でも作者は各地の「夜」を、現地には行かずに想像で描いたのだとか。
21:40
灯台は当然だが、閉まっていた。横の開けた場所にブルーシートを広げる。正方形に整えてから一辺の両端にペグを打つ。反対の辺の両端を折り返しながら真ん中あたりで合わせ、またペグを打つ。ブルーシートの膨らみの中に入って伸ばした伸縮棒を立てる。後は形を整えれば即席ターフの完成だ。
21:50
風はしのげるが、寒く厳しい環境であることに変わりはない。寒さに目が痛む。だが、彼女は何も持たずにここに居たはずなのだ。目の奥が、熱い。ターフの中に入りライトを灯すと青い空間が広がった。風を受けたシートがごうごうと音を響かせ波打つ。まるで、深い海の中のようだと思った。
22:00
意識が沈んでいく。「色んな人と会って、その人にしか見えていない世界を見てみたい」そう言って太陽のように目を輝かせていた彼女を思い出す。「私には貴方が必要です」と言ってくれた彼女。「もう、無理」と声を絞り出した彼女。自分は一体、何を見ていたのだろうか。何も見ていなかったのだろう。
23:00
支えたいと思った。一緒にいたいと思った。だけど結局の所、自分が見ていたのは「自分が見たいと思っていた」彼女でしかなかったのだろう。だから、彼女が足を怪我してしまったあの時、「大丈夫だ」などと言ってしまったのだ。
彼女に、もう一度逢いたい。
0:00
ごうごうと風が吹き続けている。その風に乗って、うおおんという音が微かに聞こえる気がした。海鳴りだろうか。自分は犬吠という地名を思い出す。犬の鳴き声に聞こえなくもなかった。だが、あれは確か主人を7日7晩呼び続けた犬の話が由来だったはず。その犬は、呼べば来ると期待していたのだろうか。
1:00
自分は彼女に「期待」してしまったのだ。その結果、彼女は消えてしまった。誰にも悟られないよう、入念な準備と予行をして、連絡手段も全て断って。気づいた時には遅かった。それ以来、自分は彼女を見ていない。うおおんという声が青い空間を震わせる。先ほどよりも大きいような気がした。
2:00
ポストに何か言葉を入れたい衝動にかられた。でも、私の言葉が届かなかったらと考えると怖い。期待をするから裏切られる。期待をするから捨てられる。期待をするから傷付く。期待をするから、壊れる。壊れてしまったら、私はもう二度と全力を出せなくなる。
3:00
私が誰かに必要とされたいのは、自分が誰かを一方的に必要とすることに負い目を感じているからだ。ライトの充電が切れた。自分の視界が闇に溶ける。スマホはあまり使わない方が良いだろう。全てが闇に染まってしまえば、見るものはみんな同じだ。自分も彼女も。
4:00
ふと、『夜行-犬吠』に描かれた女性が私の脳裏をよぎる。記憶の中の彼女と女性が妙に重なった。ポストに目を向け、私も期待して良いのだろうかと考える。きっと人々は言葉が伝わると期待して、手紙を託すのだ。ならば、彼女は誰に何を伝えたいのだろう。
5:00
何も持たずに来た私を責めるように風がまとわりつく。身体はもう冷え切っている。周りの空気と、この犬吠の夜と、私が同化していくような錯覚を覚えた。うおおん、うおおんと海の向こうから呼ぶ声が聞こえる。私がこの夜と同じなら、ここにいる彼女も、向こうから呼ぶ犬も、全て等しく私なのだろう。
6:00
もう、どこにも向かえなくなってしまった私。灯台の灯りだけが私の行き先を指し示してくれる。うおおん、うおおんと呼ぶ声が風に乗って聞こえてくる。行かなくては。自分はターフを出て灯台へ向かう。ポストを見て、ここに来たから分かったことがあったと改めて実感した。灯台の扉は当然だが、開いていた。
6:30
螺旋階段を一歩一歩上がり回廊に出る。水平線の先は白み始めていた。もうすぐ日本一早い初日の出が姿を現すのだろう。写真を撮るが白飛びをして上手く写らなかった。SNSの反応は未だない。「センセ」と声がした。振り返ると、夜を背負った彼女が目を星空のように煌めかせて立っていた。
6:30
「世界は常に夜なのよ」
犬はもう、吠えてはいなかった。
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