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最初の上司が教えてくれた、僕の仕事の基礎を築いた大切な教えと思い出

皆さんの初めての上司はどんな人ですか?
今日は初めての上司って大事だたなあと思った話です。

僕が社会人として最初に足を踏み入れたのは、東京に本社がある食品メーカーの営業職でした。
最初の勤務地は広島支店。初出勤の日は今でも鮮明に覚えています。
支店に入ると、支店長の富田さんが笑顔で迎えてくれていました。富田さんは、まるでお父さんのような存在で、厳しさの中にも温かさがあり、その優しさが僕の不安をすっと消してくれたのを今でも感じます。支店の皆さんもとてもフレンドリーで、初日から職場の雰囲気に馴染むことができました。そんなスタートだったからこそ、僕はこの会社で頑張ろうと思えたのかもしれません。

そして、僕の最初の直属の上司になったのが、月岡(つきおか)さん。
月岡さんは、もともと横浜の工場で勤務されていた方で、会社が厳しい時期に営業に配置転換され、そこから営業職としてのキャリアを積んできました。営業マンとしてのスキルはもちろん、仕事に対する真摯な姿勢やお客様との信頼関係を築くことの大切さを教えてくれた方です。月岡さんの口癖は「人は信頼から始まるんだ」でした。僕にとっては、この言葉が今でも心に残っています。

月岡さんは広島を「しろしま」と呼び、コーヒーを「こーしー」と呼ぶ、江戸っ子らしい(江戸っ子は「ひ」を「し」と発音するそうです)チャーミングな一面もありました。そのユーモアあふれる言動と温かい性格で、僕だけでなく、職場の誰からも慕われていました。
月岡さんは単身赴任だったので、飲みに行く機会も多く、仕事が終わると「やまちゃん、今日も行くぞ!」と声をかけてくれる。僕はそれがとても嬉しくて、どんなに疲れていても、月岡さんとの飲みの時間を楽しみにしていました。山口の防府勤務の中村さんも、広島にくるときは一緒に飲み会に加わり、賑やかで和やかな時間を過ごしていました。中村さんも工場出身で、月岡さんと同じく、温かくて面白くオシャレは人でした。歌もとっても上手でした。

居酒屋に行くと、まず教わったのが、注文のコツ。
最初はすぐに出てくるものを頼むこと、そして、身体に優しい枝豆や豆腐などを頼むのが月岡さん流でした。こうした小さなことでも、いつも僕に丁寧に教えてくれて、細やかな配慮に感謝しています。
飲み会の後、広島の繁華街、流川や薬研堀を一緒に歩き、スナックに立ち寄ることもしばしば。その道中で、月岡さんが突然スキップし始めるのは、月岡さんの愛らしい一面でした。歩きながら、時々ツースキップになる姿に、僕は何度も笑わされました。

仕事では、営業を支える事務スタッフの大切さも教えてもらいました。
「仕事はチームで成り立っているんだ」という言葉を胸に、僕は営業事務からスタートさせてもらいました。最初は営業に出られない焦りも感じましたが、その時期に積み上げたPCスキルや社内の仕組みの理解が、その後の営業活動に大きく役立ちました。同期はすでに営業の第一線で活躍していましたが、僕はこの期間を無駄にはしていないと確信しています。

やがて、営業に出て、初めて大きな案件を受注したときの喜びは言葉にできません。
富田支店長がそのことを本当に喜んでくれて、ある日「今日は特別なところに行こう」と、僕を高級クラブに連れて行ってくれました。支店長のその心遣いがとても嬉しかったのですが、緊張のあまり、途中でトイレに駆け込み、吐いてしまったのは今でも恥ずかしい思い出です。でも、その時の支店長の笑顔と、「やまちゃん、よく頑張ったな!」という言葉は一生忘れません。

2年半後、広島支店から異動することが決まった時、月岡さんが泣いてくれました。「やまちゃんがいなくなるのは寂しいよ」と言われ、僕も胸がいっぱいになりました。僕より20歳以上年上で、当時40代なかばだった月岡さんの涙に、僕も思わず泣きそうになったのを覚えています。月岡さんは、ただの上司ではなく、僕にとっては人生の師匠のような存在でした。月岡さんが教えてくれたことは今でも僕の心に生きており、今の僕があるのは、あの広島での経験、そして月岡さんが築いてくれた基礎があったからこそだと思っています。

その後、僕はその会社を辞めましたが、富田支店長や月岡さんとは年賀状のやりとりを続けていました。
そんなある年、月岡さんの奥様から「月岡は昨年亡くなりました」というハガキが届きました。
月岡さんは、定年後まもなく亡くなられたそうです。その知らせを聞いたとき、心にぽっかりと穴が開いたような感覚でした。
あの頃、僕を育ててくれた上司がもういないと思うと、言葉にできない寂しさが込み上げました。それでも、月岡さんが僕に残してくれた教えや思い出は、今でも大切に胸に刻まれています。

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