人間失格。

僕が住んでいる青森県では太宰治を英雄視する動きと、残念なことに蔑視する動きが両方存在する。それは、走れメロスと人間失格と言う作品がもとである場合が多いように思う。では、両方読むとどうなのであろうか。
太宰は自ら死を選んだ"自殺者"と言う側面も持つ作家だ。しかし彼の自殺鐔には調べてみなければ適当に語られてはいけない側面もがあるとおもうのだ。
僕は高校時代、精神的に追い詰められ、実際死んでしまった方が楽なのではないかと言う状況にたったことがある。僕の人生に置いて死は常に真横にいて、虎視眈々と常に僕の首をねらっていると思って生きてきた。今だってそうである。ただ、この考え方はメメントモリ精神を知り、実は物凄い側面があるということを知った。メメントモリについては興味のある人は調べてみればいい。

さて、太宰の話である。太宰治の作品は僕は走れメロスから読んだ。と言うより、学校の教科書でよんだのだ。ただ、其の内容の素晴らしさに、当時荒んでいた自分の心に焼き付くように残った。
一方、人間失格は自ら本を買って読もうと思った。何を人間失格というのか。メロスを書いた太宰の言う人間失格とはなにか。
読んでみて思ったのだが、結論から言えば、人間はどんな状態になっていても失格ではないと言うことだ。
人間失格では恐らく太宰が自らが罹患者であること。そして、人間はそうなってまで生きていていいのかと言う葛藤があらわれたのであろう。しかし、どうだろう。罹患者が悪いのだろうか。太宰が罹ったのは当時不治の病とされた結核である。人間失格なのではないだろう。絶望する事が人間失格であり、希望を持てない、死が真横にいることは決して人間失格ではない。むしろ、不老不死を謳うものより人間的なのだ。
死を望んだことがあると言うと、大抵それは愚かか、極論的に死ねばいいと言う輩がいる。でも、人間はいつか死ぬのだ。しがこわくないやつがいるか?そんなやつがいるか?

メメントモリ精神だから、太宰は人間失格を書けたのだ。そして、人間失格を自殺者の小説とし、走れメロスばかりが素晴らしいとする趣はまちがっている。どちらも、太宰治のと言う一人の作家が、例え命を削ろうとも残した作品なのだ。

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