狡猾な生き物である人類は、起こりうる災厄を統べるべく機械文明の高き塔の群れを作り、全ての凶元の元は自ら達ではなく、悪しき神が悪いと虚言を振り撒く。本来信じるべく己から逃げ、本来信じるべき他者に境を作り、それぞれが己が虚の居城で至福肥やし、もう他者との関わりを遮断し、自らなどわからなくなりながら機械文明が作った頭脳に従い始める。正に自らを知らぬものが作った虚構の邪神が誕生した。
混乱の中、産まれた一卵性双生児の女の子が二人いた。戦々恐々とする殺伐とした世界で、その二人は片方は北欧、片方は東洋に里子に出され、それぞれシスターと巫女として教会と寺院に引き取られる。終わらない民族差別とは格差社会、戦争、紛争の中、神に祈りを捧げることに身をやつした。二人は住む場所は違えど、同じ責務と使命のもと、互いの励まし合い手紙ではあれど、互いの思いを伝えあっていた。
僕ねぇ、不思議系とよく言われるんですが、自分でもそこまで決めていいんかいって言うことを、人生の分岐点において、全部タロット占いで決めてたんだよね。自分でやるんだけど、悩んだらタロットって感じだったな。
人間は須く対等である。富を持つものが強いのでも、知識が深いものが強いのではない。例え、生きていることが困難でも、生きていること、そして死して尚、対等なのだ。 生きると言うことは、常に試練に自ら立ち向かう事を示し、例え戦えないほど傷ついても、何処かで立ち上がり、善処していくことを示す。辛いときはある。誰もがそういうときを乗り越えるから、前進しているといえる。 己の我儘がいつまで通るかは人それぞれだが、年齢を16歳になってまでそれが通ると思っているのは愚かなのだ。 僕は高校時代弓
僕が住んでいる青森県では太宰治を英雄視する動きと、残念なことに蔑視する動きが両方存在する。それは、走れメロスと人間失格と言う作品がもとである場合が多いように思う。では、両方読むとどうなのであろうか。 太宰は自ら死を選んだ"自殺者"と言う側面も持つ作家だ。しかし彼の自殺鐔には調べてみなければ適当に語られてはいけない側面もがあるとおもうのだ。 僕は高校時代、精神的に追い詰められ、実際死んでしまった方が楽なのではないかと言う状況にたったことがある。僕の人生に置いて死は常に真横にいて
コロナの蔓延を禍だとする言葉である"コロナ禍"と言う標語は完全な間違いである。災いとは実際は人の手でどうしようもないものの事を示し、禍いと言う標語はその段階が如何様にもしがたいものの事を示す。コロナの拡大傾向は人の動きに比例するのは、情報を多少見ていてもわかるのだ。 さて、創意創作の本質の話である。本来創作とは人間の感情や情動と言ったものの表現である。事実はもう少し違い、明るい時に明るく、絶望の時に絶望的な作品が生まれると言った実に直感的な作品と言うのが、須くすべて創作なの
マンガとcomicの違い。 日本におけるマンガっていうものは、元義的に日本画ではないんだよ。日本画→版画→風刺画→漫画→マンガ。 一方、comicはちょっと違う。 絵画→色彩版画(この場合ポスターの含む)→挿絵のために版画→comic。 マンガとcomicは圧倒的に絵の質が違う。
思考とスマホの話。 現代人はスマホの事を第二の脳みたいに思ってるけど、それは完全に可笑しな話なんですよ。脳の機能を健全に維持するのに必要ないんだよ。第一スマホレベルの機能なんて、劣悪化した概念で、人間にはもっと有能な思考システムがあるんだよね。もっと。
精神と心理の話。 大抵、精神崩壊って治らないんでしょうって言われる。実際には治らないよ。ただ、一旦ブロックされた部分は思考の方向性は治らないけど、迂回路は出来るんですよ。シナプスとシナプスの連結携帯は決して治ったりしないけど、シナプスなんて無限に迂回路が作れる構造なのです。
noteを始めるにあたって検討しているのは精神性と心理性の対立です。いきなりこんなこといってワケわからんと言う人の方が多いはず。