見出し画像

「万引き家族」の先行者たち。60年代は大島渚の「少年」、80年代は工藤栄一の「野獣刑事」。

いつどの時代にも「社会的弱者」をテーマにした物語は必要とされる。
一概に社会のせいとも、自己責任とも、他人事と排斥することのできない、複雑さを持った物語が。
2010年代の邦画における代表格が、言わずと知れた「万引き家族」だろう。

経済発展から取り残された世界を舞台とした、貧困、そして親と子どもの相克をテーマとした映画。 日本において、その歴史は意外に古い。
1969年には大島渚が創造社において、実際に発生した当り屋一家事件をモデルに田村孟脚本で「少年」を製作しているし、1982年には東映が工藤栄一監督・神波史男オリジナル脚本で「野獣刑事」を製作している。(なお、同時期東映はショーケン主演で「誘拐報道」を製作。邦画が攻めていた時代だった。)

同類は、他にも探せば多数あると思う。選んでこの二作を取り上げるのは「ブラウン管の中のヒーロー」が小道具として使われているからだ。万引き家族には現れなかった要素。比較してみると、興味深いかもしれない。


ウルトラマンは助けにこない。 大島渚の「少年」。


不甲斐なく、頼りなく、横暴で勝手な父母と、そんな親の下で生きていく息子。
「可哀想な息子」だと、客観的視点に立って同情すること「も」できる。
他方で、自分に課された運命に耐え忍ぶ息子の痛みと一体化すること「も」できる。
大島渚作品では珍しく「少年の眼差し」に寄り添った作品。
だから、この映画は痛い。

「愛と希望の街」以来、犯罪と少年は大島作品の主要なモチーフであり続けたが、親子の当たり屋という実話に想を得た本作は、その系譜の頂点をなす作品である。主役の少年に施設にいた素人の子どもを起用、しかも低予算のオールロケで旅をしながら撮影するという未知数だらけの撮影であったにもかかわらず、映画的な恩寵に満ちた傑作に仕上がった。十歳の少年、三歳の弟、ニヒルな傷痍軍人の父(渡辺文雄)、意地悪な継母(小山明子)の一家が、警察の目をかいくぐるように九州から北海道まで日本を縦断しながら、当たり屋稼業を繰り返す。これ以下はない酷薄な状況のもとで、少年は子どもらしい美しい夢を見ることもあるが、生きてゆくために毅然と犯罪者としての自分を引き受ける。玄妙な抽象性を貫き、目をあいて見る夢のごとき時空感覚で語られてゆく本作で、大島の映画話法は戦慄的な高みに達しており、後半の小樽での雪のシークエンスは特異な抒情とともに大島の怒りと悲しみが迸る。

大島プロ 公式サイトから引用

あらすじにもあるとおり・・・
犯罪に手を染め、悪い方に向かう自分の運命に平気でいられるはずもなく。
恐怖と、毒親への反発心があって、何度も、少年は一家からの脱走を試みる。

しかしそれは「どこにも身を寄せる場所がないから」叶わない。
少年の心は擦り切れ、やがて「これは呪われた運命なのだ」と諦観するようになる。それを「引き受ける」と呼んでは、あまりに、甘すぎる。

どのシークエンスでも、基本少年は大人の手前、本音をしまい込む。(それは、必死の思いで伝えた願いが、なんどもなんども、父母に一蹴されたトラウマを引きずっているからだ)
カッコつけようとしても、しんどさは隠せない生活の中で、少年はアンドロメダ星人を夢想する。テレビで見たそれは、「怪獣を倒すために宇宙からやってきた正義で孤独なヒーロー」。つまり、ウルトラマンだ。
ウルトラマンが自分と、そしてまだ小さい弟:チビを救い出してくれることを願う。あるいは自分がウルトラマンになりたいと思う。
父母が「くだらん」と一蹴する手前、この夢想を共有できるのはチビだけである。 

彼がどれだけウルトラマンを欲しているか。それは、日本を縦断する旅の途上、彼は各地でウルトラマンが現世に降り立つ夢を見るシーンに明らかだ。
船に乗れば、大海獣を蹴散らす戦闘シーンが眼に浮かぶ。
飛行機に乗れば、自分自身が宇宙人になった気になる。
鳥のお化け、チョウチョのお化けを蹴散らし、雲の間を飛行する気分になる。
無邪気な「子供らしい」といえる性格を持っているのだ。

少年であることを諦めながらも、少年でありたいと願うこころは、しかしそう長くは続かない。
流れ流れて辿り着いた冬の小樽で、第三者たる赤い服の少女を轢き逃げに巻き込んでしまったことで(そして少女を死なせてしまったことで)終わる。
少女の葬儀の場ですら、父母は自分のことしか関心がなく、恥知らずで無教養な姿を晒す。
やりきれないと飛び出した外は、いちめん真っ白の雪。
ウルトラマンを模した雪だるまを作って、弟:チビと、いつもの夢想の世界に逃げ込もうとする:しかし話しているうちに、少年の怒りが爆発する。
以下、少年の台詞を引用してみよう。

雪だるまはアンドロメダ星雲からの正義の味方・宇宙人。電車も自動車も何も怖くない宇宙人、ぶつかれば相手がわれてケガもしないし、泣きもしない、涙がない。親はいない。危ない時は星から宇宙人が助けにくる。 

そういう宇宙人になろうとしたが
ぼくはふつうの子どもだ。
宇宙人のばかやろう。

そして、ウルトラマンの雪だるまを、チビの目の前で蹴り壊すのだ。

一家はそれからしばらくして、逮捕される。
「親にやらされた」そう言ってほしい(そうあってほしい)と願う警察の思惑とは裏腹に、少年は「ボクがやりました」と供述する。
生きるためにやったのだ、犯罪をやったのは自分だ、そう主張する。
一方で、死んだ少女のことは、彼の口から語られない。(そして誰の口からも語られないだろう。)
おそらく父母は些細なことと、忘れたに違いない。
少年は胸の中で、その痛みを引きずっていく。
永遠に、生々しく。

いかがだろうか。 もはや完全に救いようのないクズ親を描くとともに、
大人の汚さを拒絶しながらも、しかし、大人になることを避けられない少年の痛み、無念を、強烈かつ瑞々しく大島渚はオールロケの映画で描いた。
だから、この映画は痛い。


ゲッターロボは助けにこない。 工藤栄一の「野獣刑事」。


もっとも「少年」は半世紀前の社会が舞台だし、犯罪で生活の糧を得ている家族が主役だ。「万引き家族」同様、ファンタジーだと断じることは容易いだろう。

では、本作はどうだろうか。
昨年公開されたドキュメンタリー映画「解放区」と同じ、釜ヶ崎が舞台だ。 

今と、本作の舞台となる三十数年前で、大して街の風景は変わりはしない。

メインの舞台となる釜ヶ崎は関西弁の重油のような脂っこい世界。社会の底辺の人たちが身を寄せ合って生きている。
絵作りが非常に美しい。画面の雰囲気、フィルムのくすんだ感じが、のちの「ブラックレイン」に影響を与えたのではないか、と思えるほど。
絵が美しいからこそ、貧困が際立つ:目を背けられない世界が広がっている。
本作は釜ヶ崎をどうこうしようとか、異議申し立ての映画ではない:風俗だけを描くのが、潔い。ただ、人間関係の断絶ばかりが描かれるのみだ。

降りしきる雨の夜、赤い傘をさした女が殺害された。被害者は西尾由美子22歳、首を絞められ何度もナイフで刺されていた。有能だがやりすぎという声が絶えない大阪・釜ヶ崎地区の捜査一課刑事・大滝誠次も、この事件の捜査に駆り出された。大滝は、かつて自分が刑務所に送り込んだ男・阪上の情婦・恵子と同棲に近い暮らしをしていた。狙った獲物は逃がさず、時には無法な行動も辞さない野獣のような彼は、独自の捜査で被害者・由美子の隠された生活を暴いていくが、犯人は依然として見つからない。そんな中、出所した阪上が恵子の家に転がり込み、奇妙な三角関係の生活が始まるが……。
刑事さえ犯罪者と紙一重、あるいは犯罪者以上の事件を踏まなければ生きてゆけない現代の病根が、一人の刑事の生き様を通して、リアルに浮かび上がる衝撃の刑事映画。緒形拳が、一度狙った獲物は逃がさない男<野獣刑事>を迫真の演技で魅せるほか、いしだあゆみ、泉谷しげるが体当たりの演技でドラマを盛り上げる。
光と影の魔術師・工藤栄一監督が、大都会の喧騒の裏側にある冷ややかな沈黙を鮮烈に映し出した傑作。

東映ビデオ 公式サイトより引用

こっそり白髪の混じる和製ダーティハリー・大滝(演:緒形拳)が主役。
文字通り、野獣のように刑事が暴れる。 そちらに視線を取られがちだ。

しかし大滝が、とある母子と、「家族」になろうとする、別の筋もある。
この映画を見るときは、ぜひ、少年の視点にもなってほしい。

恵子(演:いしだあゆみ)とその息子・稔が住う部屋は、白熱電球すら眩しい、木製アパートの一室。影の強い画面が、さんさん荒涼たる生活を象徴している。
稼ぎはそれなりにあるのか、三種の神器はあるし、電気水ガスも止まってない。
しかし、モノに恵まれていても、内面は荒廃している。
子どもの視点から見れば、ずかずか家の中に乗り込んできた悪い男(大滝)が、母とまぐわっている。母が喘ぐ声を、布団にくるまって耳を塞ぐ息子。
ここに、出所した阪上(演:泉谷しげる)が加わる。 稔のこと構わず大人たちが三角関係を始める。 子供にとって、地獄だ。

恵子は大滝と一緒になれるならば嬉しい、と無邪気で前向きだ。 稔はどうか?
彼はブラウン管の中のゲッターロボ (時系列的に再放送だろう)を見つめている。母が夕食の準備中、大滝や阪上のことを熱っぽく語る声から、耳を背けるようにして。
大人が無邪気に思い込みたがるのは「親が子に愛を与える、それを引き換えに同じくらい子は親を愛してくれる」ということ。
恵子にとっての稔がそうだったし、大滝も阪上も、稔にそれを期待していた。
ンなわけがない。 稔が大滝や阪上に対する返事の歯切れは、悪い。
この映画、「少年」同様、やはり結末が苦い。親の心子の心、ありはしないと。

大滝が囮捜査に恵子を利用したせいで、母を喪った(ついでに阪上も半狂乱の末死んだ)後も、稔はおなじアパートで、盗みを働いて、ひとり生きている。
「このままじゃいけない、この子を引き取って更生させたい。」と大滝は思う。
稔の母を死なせた贖罪だけではない。それは、腐っても警官としての正義感に由来するし、何より「血は繋がってなくても、自分は父親になれる」そんな根拠のない自信を持っているからだ。

その望みは、一瞬にして、しなびる。

上記の囮捜査の顛末:左足が不自由になり、警察もクビになったただの野獣・大滝は、稔の部屋の前にたどり着く。「かぞくになろう」と。
ここで初めて、稔は仕舞い込んでいた本音を、大滝にぶつける。窓を閉じて扉に鍵をかけて「入ってはならん」と拒絶するのだ。瞬間、大きい図体の男が、リリー・フランキーの様にしょげて、崩れ落ちる。
大滝がよろめきながら去っていくのを、稔は窓越しに見つめる。稔が複雑な表情を浮かべるのが印象的だ。「万引き家族」の祥太の様に。

稔も親(になるべき存在)に恵まれなかった。「少年」と同様に。
「少年」「万引き家族」は、養護施設ならば・・・との希望を残す。
この子にはそれすらない、ひとりで生きていく肚だ。いずれ、なぐれ者になっていくだろう。(「じゅり」の様に、希望が見えない。)
大人の汚さを既に引き受けてしまった、そして汚れっちまったまま生きていくであろう少年の痛みを、強烈にえげつなく工藤栄一は描いた。
だから、この映画もまた痛い。


いいなと思ったら応援しよう!

ドント・ウォーリー
この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!

この記事が参加している募集