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若松孝二の「餌食」_俺は、弾をこめて、レゲエを撃つ。
Amazon Prime Videoで一時期「JUNK FILM by TOEI」に加入していた。
本チャンネルで見られる作品の大半は、「女番長」や「不良番長」や「異常性愛路線」他もろもろデタラメばかりなのだが、玉石混交と言うべきか、なかには拾い物もあって。
1979年公開 若松孝二監督、内田裕也主演の「餌食」など、その最もたる例だと思う。もう40年前の映画だが、今に通じる強いメッセージ性を持っているのだ。
内田裕也扮するアメリカ帰りのロック歌手がレゲエに魅了され、日本でプロモートしようとかつての音楽仲間を訪ねる。だが、金の亡者と化してしまった奴らは彼を鼻にもかけないばかりか、かつての恋人を麻薬づけにしていた。やがて彼は、ふやけた時代と人間への反発から大量無差別殺人へと走ってゆく。
【スタッフ】
監督 若松孝二
脚本 荒井晴彦、高田純、小水一男
【キャスト】
内田裕也、多々良純、水島彩子 ほか
**
「レゲエ」が除け者にされる。その意味は?**
ただ雰囲気をそれっぽく齧るだけでは、ただ聞き流すだけでは分からないが、1960 年代後半 のジャマイカにおいて誕生した音楽、レゲエは「政治」を歌うものだという。(それはこの音楽がその出自をキリスト教的メシアニズムおよびブラック・ナショナリズムを柱とするラスタファリ運動に負っていたからだとか云々)
つまりはプロテスト・ソング。日本で言えば60年代末〜70年代初頭に流行った反戦フォーク、ポリティカル・ロックと同類。
フォークやロックの熱が冷めた途端(評論家の先生方の言葉を借りれば「大衆によって消費される様になった」辺りから)、急速に日本は「シラケ」の時代に入っていく。
本作公開当時(1979年)、「いまさら」反権力とか反抗とか、政治の話を持ち込む輩は、アナクロな、時代遅れなものに映ったに違いない。
内田裕也が各所にレゲエを持ち込む、そして各所に袖にされる姿は、まさしく当時の「政治」の立ち位置を表している。
理由ありきの反抗。それを圧殺するのは、一体?
ここに、戦争中、上官に片腕を切り落とされた元バイオリニストの爺さん(演:多々良純)の挿話が加わる。彼が時折口ずさむのは歌謡曲。戦前戦中、日本人(殊に日本恋しむ前線の兵士たち)に心から愛された曲の数々。それもまた、節が古臭いと、今や唄い手は消えつつある。
「忘れられた皇軍」と「反抗の世代」。内田裕也と多々良純、70年代末の飽食ニッポンのなかで立ち位置を見失いつつある者同士、互いに惹かれ合う。
だから内田裕也は、多々良純が死んで遺した38式銃片手に反抗を始める。
ビルの屋上から歩行者天国目掛けて無差別殺人をおこなう、
目的は?おそらく、「俺たちを見ろ!」の時代遅れのアジだろう。
怯えて身を伏せる人びと、舞い散る血漿、不敵な笑みを浮かべる内田裕也。
ふと、何者かが内田裕也に銃弾を撃ち込む、二発、三発、四発。銃弾は画面手前、つまり「われわれ」のいる方向から放たれている。「われわれ」が内田裕也を撃つ、俺に明日はなかった、と内田裕也はゆっくり崩れ落ち、息絶える。
さて、
レゲエは「政治」を歌うものだと書いた。その一つを引用して本記事を〆ることとしよう。
Ne me parlez plus de politique Je veux sauver ma vie
(邦訳:政治の話はしないでくれ 俺は命が惜しい)
レゲエ歌手 Alpha Blondy 「Politruc」より引用
※本記事の画像は若松プロダクション公式サイトから引用しました
「JUNK FILM by TOEI」で
いまは観れなくなっている・・・だが、そのうち復活するだろう。
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