
父が子の手を引くのだが…。イタリア映画「自転車泥棒」と日本文学「子を連れて」と。
1948年にAcademy Award for Best International Feature Filmを受賞したのがヴィットリオ・デ・シーカ監督のイタリア映画「自転車泥棒」だった。
この映画は「理不尽」
それも「貧しさからくる理不尽」
あるいは「誰かや自分のせいにするのは簡単だが、しかしそれだけでは割り切れない、社会のひずみから生じる理不尽」というものを抉る。
「万引き家族」も「パラサイト半地下の家族」も
すべて、この映画に源流がある、と言っても過言ではない。
有名すぎる映画なので、くどくど、あらすじを書くのはやめよう。
貧苦の中にある父子。ある日、父親が、仕事道具を盗まれる、それを探すが見つからない、途方に暮れる、それだけ。
この映画を見終わった時、私はある小説の〆の一文を思い出した。
生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。
「……が、子供等までも自分の巻添えにするということは?」
そうだ! それは確かに怖ろしいことに違いない!
が今は唯、彼の頭も身体も、彼の子供と同じように、休息を欲した。
青空文庫より引用
大正期の私小説家、葛西善蔵の作品「子を連れて」。
これと似た構図:貧乏の中、父が子の手を引いて、途方に暮れる。
大きな違いは、「子を連れて」が「悲惨すぎて笑える」のに対し
本作は「悲惨すぎて笑えない」ように作られていること。
「子を連れて」の父親は、(著者自身と同じ)間抜け、生活破綻者だが
「自転車泥棒」の父親は、人並みに稼ごうと頑張るのに、報われないのだ。
結局、自転車泥棒は捕まらず、
「俺にもできる」と自転車盗んでみれば、たやすく捕まえられ、
まっとうな生活から、世間から、二重に、追い立てられていく。
最後、泣くまい、泣くまいと堪える父の背中、
その父の手をぎゅっと握りしめる健気な子。
貧困に打ちひしがれる姿を、遠からず近からず捉える残酷なドラマ。
これを、悪い運の星に生まれたと言うのは、無情すぎるし
惨めと言うのは、くど過ぎる。
やりきれないとは、このことだ。
いいなと思ったら応援しよう!
