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ガラケー通じて何語る? 「あしたの私の作り方」

一見、「億男」「夢をかなえるゾウ」のような自己啓発モノ、の映画化に見えるが、断じてそんな安い作品ではない。
前田敦子が主演、および全盛期AKB48の同期も数々主演している。だからといって安いアイドル映画でも、断じてない。

学校では仲間外れにされることを怖れ、目立たない子を演じる寿梨(成海璃子)と人気者からある日突然いじめられっ子になってしまった日南子(前田敦子)。高校生になった寿梨はコトリという名前で、日南子に人気者のヒナの物語を携帯メールで送る。メールに驚きながらも日南子はヒナの物語の通りに行動することでクラスの人気者に。だが、やがて本当の自分とのギャップに苦悩するようになる。寿梨も同じように自分の役割を演じることに疲れ果てていた…。

日活公式サイト

映画女優のように、儚げに、あの前田敦子が妙に色っぽかった。

ものがたりは寿梨の「私はまだ本気出してないだけ…」ため息とも取れる独白から、映画は始まる。
「そのままでいいはずがない」だから、日南子を利用するのだ。狡いというか、聡いというか、恐ろしいというか。怖い。ことりとひなの二人だけの電話は心理戦そのもの。ひなはにこやかにネタバレし、精神的優位に立つ。「明日はいいことあるかもしれないから」自己全肯定とも取れるぎりぎりさ。それでも、いまは本音をさらけ出し会える友達がいる。そう一本の線で繋がり合う。

「私はまだ本気出してないだけ…」
   始まってしまった高校生活の中で、人間関係をうまく結べず周囲に溶け込めないジブンに対する諦めともため息。
   そのどちらともつかない(いや両方の)少女の独白から、この映画は始まる。

   このままのジブンでいいはずがない。
   だから、日南子は携帯メールに「ひな」=「偽りの自分」を託して、心の安らぎを得ようとする。
   寿梨は「偽りの自分」からのメッセージを武器に、スクールカーストの高みへと上っていく。
   互いに互いを利用する、共犯関係が期せずして成立している。これが、狡いというか、聡いというか、恐ろしいというか。
  「偽りの自分」は嘘だと、罪悪感から心をすり減らしていく日南子も、   「偽りの自分」はまことと、古い羽を脱ぎ捨て軽々と生まれ変わっていく寿梨も、どちらも姿も、真に迫っていてオソロシイ。


   もちろん、うすうす察している。このまま互いに黙っていられるはずがないと。
   それでも日南子は、謝罪するか?しまいか?煮え切らないなあなあの姿勢のまま硬直する。
   そこに寿梨が不意打ちの電話をかける。 日南子>寿梨だったのが、ここで初めて精神的な優位が崩れる。優位が崩れてしまってはたまらない、日南子は寿梨への謝罪に泣き崩れる。
   それを寿梨はエーミールよろしく事もなげにいなす。
   怒るどころか、「あなたのおかげで人生楽しくなった、アリガトウ!」と感謝する始末。あとはけろっとしてしまう。
   まるで気にしていない風の電話越しの声に、日南子は救われる。


しかし、TV電話越しに映る寿梨は、口元に笑みを作ってはいても、クリクリした目だけは笑わない。目だけはシリアスなのだ。
 まるで日南子の心を試すかのように。
 またはこの世の真実、嘘をついて生き延びる卑怯な人の心を覗き込むかのように。
 その奥は、幽霊のように、どこか暗く哀しい影を帯びている。
 寿梨=成海璃子は現世を超越している。どこかで、人間をやめているに違いない。地に足ついた等身大の少女を演じる日南子=前田敦子と比較すると、どうにも、そうとしか思えない、瞬間。

と、こう書いてしまうと、「女の子の恐ろしさ」を描いた映画のように見えるが、そこは市川準監督のタッチ。(いまや絶滅危惧種の)長回しを多用し、平易、簡素、極めて控えめで禁欲的なタッチ。 静かに、間とか「感じる」ことを重んじる演出を行っている。
だからこそ、後に主役を数多く張る女優へと脱皮するふたりが、まだ少女だった、ものすごく色気のある瞬間を、見事に切り取ることができている。
「前田敦子は成海璃子の跡を追ってかしらずか、役者の道を進むべくして進んだのだな。」そう感じ入る作品でもあるのだ。

<スタッフ>
監督   市川準
原作   真戸香
【キャスト】
成海璃子   大島寿梨
前田敦子   花田日南子


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