映画「男の顔は履歴書」_戦後闇市、ブラック・ジャックが血で濡れる。
顔に傷跡を残したアウトローの医師・・・といえば、ブラック・ジャックだが
この男、林立する高層ビルの谷間にぽつんと隠れるように建つ雨宮医院の院長・雨宮修一にも、左頬に深く刻まれた傷跡がある。
見えないようでよく見える、ホンモノの彼の傷跡をクローズアップに切り取るカメラから映画は始まる。周囲の工事の音に耳を塞ぐようにして、じっと目を瞑っている男。なにも、語らない男。 沈黙が雄弁な瞬間。
玄関で音がする、階下に降りると、男が車にはねられボロ屑のように運ばれて来る。日本名は、柴田。
それは、忘れようとも忘れられない同期の桜。沖縄決戦では雨宮が上官、柴田が部下。最後に二人が会ったのは、もう二十数年も前であった・・・。
舞台は過去に移る。時は1948年。 正しいものが誰もいない、虚脱の時代だ。
スタッフ
監督:加藤泰
プロデューサー:升本喜年
脚本:星川清司/加藤泰
音楽:鏑木創
撮影:高羽哲夫
美術:梅田千代夫
照明:青木好文
編集:石井巌
録音:小尾幸魚
CAST
安藤昇/中谷一郎/中原早苗/伊丹一三/真理明美/藤岡弘/香山美子
柳沢真一/高宮敬二/田中春男/角梨枝子/三島雅夫/菅原文太/富田仲次郎
浜田寅彦/若宮忠三郎/川辺健三/沢淑子/石井富子/内田良平/嵐寛寿郎
松竹DVD倶楽部 公式サイトから引用
やくざの小野川一家(組長は鬼寅、もとい嵐寛寿郎)が仕切る闇市に、やくざの九天同盟(同盟のボス・劉は内田良平)が乗り込んでくる。金にあかせて用心棒を続々と雇い、侵攻作戦の準備を進める。
九天同盟の中には、のちに親分と対立し広島・呉で旗揚げする見かけた顔もある。後述するが、やはりというべきか、見事な死にっぷりである。
のちにバッタの改造人間になる男もいる。この頃から、カッコつけている。
沖縄戦から復員してきた雨宮(演:安藤昇)は、このマーケット一帯の地主。彼は、土地の権利を、小野川一家に譲ることにも九天同盟に渡すことにも、どちらも同意しない。
九天同盟は、雨宮が小野川一家に買収されたのではないか、と疑い
小野川一家は、雨宮が権利を外国人に譲り渡したのではないかと訝しむ。
闇市を舞台に、ふたつのやくざの対立は深まる。至る所で喧嘩が起こる。
被害を受ける闇市の商売人たちは、雨宮が中立を保つせいだ、卑怯者だと、彼を逆恨みする。
この対立に心を痛める者も少なからずいる。例えば、コリアンキャバレーで働く戦争孤児、恵春(演:真理明美)だ。
苛立った劉は土地の権利書を奪うために雨宮の弟、俊次(演:伊丹十三)を拉致して人質にする。この脅しにも、雨宮は首を振らない。諦めずになおも劉は雇った用心棒を寄越す。日本名は柴田、いまの名前は崔(演:中谷一郎)という男だ。
九天同盟と小野川一家が縄張り争いをする。ぱっと見「良いやくざ対悪いやくざ」の構図だが、住人たちにとっては同じ、迷惑でしかないアウトローだ。
じゃあやくざじゃない一般市井の住人たちはマトモなのか。
そうじゃない、彼らもエゴの塊だ。金のある方に平気で靡く。他方、九天同盟を「異民族」という理由で、内心では蔑視している。恵春も例外ではない。
人と人が似た者同士で徒党を組んでは際限なく憎しみ合う、真の無法地帯。
エゴがある、暴力がある、そして人種の差別もある。「闇市」の裏の顔だ。
そんな渡世の住人たちを、冷静に、淡々と見つめているのが、我らが雨宮だ。
言葉数少ながら、口から溢れる含蓄の数々に、どきっとさせられる。
殺し合いの中で愛が生まれる。人間ってのはそういうものよ。
あるいは、
日本人ってのは好きだからな。他人についていくのも、裏切るのも。
など、非常にニヒリスティックだ。 そうでなきゃ、傍観なんて出来やしない。
なにせ雨宮もまた、戦後の土地開放で目の敵にされている存在だ。絶えず「いったい誰のものにするんだ」と、揺すられ、怒鳴られ、野次られる。
雨宮は誰の言葉にも首を振らない。静観する。たとえ「傍観者」と野次られようとも。最大多数の幸福など蚊帳の外、何もかもエゴイズムに従った行動を誰もが取る以上、誰が正しいとも思えないから、彼なりの正義をじっと貫こうとする。
徹底してニヒルな彼も、無視できない別の正義を前に、動揺する。
ひとつは、同じ戦場を戦い抜いた同期の桜:崔の存在だ。暴力が何も解決しないことを諭す雨宮に、虐げられた民族として支配した民族に対する怒りと悲しみをぶつける崔。 雨宮は言い返すことができない。 しかし崔も、恩義ある雨宮の気持ちを知ると、力づくで権利を奪うことなどできない。
もうひとつは、弟、俊次(演:伊丹一三)の存在だ。彼は戦争に「間に合わなかった」世代だ。空襲は知っても、ホンモノの戦場は知らない。
暴力の虚しさを知らないから、「どうして兄貴は動かないのさ」と、腕ずくでヤツらを黙らせろと、突き上げる。
事あるごとに兄弟は対立する。戦争を体験しているか未体験かの違い。戦後の混乱というものが、くっきり浮かび上がっている。
そしてこの俊次は、恵春と愛し合っている。 民族が違うことは十分承知で。
この弟が原因となって、雨宮は重い腰を上げることになる。
雨宮への恩を返そうと、崔は囚われた恵春と俊次を逃がそうとするが、劉の部下に発見され二人は射殺される。最後まで握りしめあった二人の死骸が哀しい。
崔は重傷ながらも逃げ延び、マーケットに匿われる。
雨宮は決意する:恋人だった看護婦のマキ(演:中原早苗)を崔に託して、ドスを片手に九天同盟へ殴り込みに向かうのだ。
それは、弟の敵討ちである だけでなく
綺麗に言えば、カタギの、憎しみ合いを終わらすための自己犠牲の精神。
あるいは、非暴力の仮面の裏側に隠していた暴力性、全てに対する怒りの発露。
誰かに強いられた訳でもない、誰かを守るためでもない、これはただ、憎しみ合いを終わらすためだ。そのためだけに、自らを差し出すのだ。
やくざたちをめっぽうに、斬って、斬って、斬りまくる。
争いを起こす全ての者への怒りの爆発が、闇市の土を血に濡らしていく・・・。
皆殺しの後、彼はお縄を頂戴する。
8年の刑期を終えて出獄。 マキはいなかった。 土地の権利も小野寺一家に奪われた。 弟は還らない。 雨宮は全て失った。 以来、ひっそり生き続けた。
全てが終わった後、引き裂かれそうになりながら生きてきた10数年間。敗戦を忘れた日本は、列島改造を始めた。周囲はごとごと揺れている:細々続けてきた医院も近いうちに畳む日がやって来ることを、うすうすながら知っている。
その矢先、崔が担ぎ込まれたのだ。
病院に、崔を車で轢いた社長(演:三島雅夫)が謝罪にやってくる。崔の娘の名前を聞いて「なんだ朝鮮人か!」と馬鹿にして立ち去ろうとする社長に雨宮は「この娘に謝れ!」と怒鳴りつける。駆けつけてきた崔の妻は、マキだった。
雨宮は新たな決意を決める。 息も絶え絶えの崔をぜったいに救ってみせると。あの殴り込みの日、彼は「暴力を否定すること」すら捨ててしまった。
空っぽのまま10年を生き続けた。
崔と再会してもう一度、「暴力の否定」つまりは「愛」を信じてみたいと雨宮は思う。つまり、彼の命を見事に救う奇跡を起こすことで、自分の人生をやり直そうと思うのだ。
白衣に着替え手術台に向かう彼。
最後の「よおし!」の力強さ。
これほどまでに強さに満ちた「よおし!」を、私は知らない。
最後に、本作の監督の言葉を引用して、この記事を締めたい。
「戦争・・・強制された使命感 敗戦・・・価値体系の喪失 そして現代、と結ばれた直線の上で、彼、雨宮”は何を信じようとしたのか。日本人同士のエゴの交錯の中で-抑圧されてきた、いわゆる外国人の解放感の一つの頂点であったであろう”暴力”の中で、”何も信じられないことだけは信じられる”と思っていた彼が、ただ一人立って暴力に立ち向かって行ったのは何故か。”そこにだけは愛がある”と信じようとした”マキ”が離れて行ったのは、何故か。民族のちがいを越えて”人間”を信じようとした”崔”が去って行ったのは何故か。それを、特異な個性をもつ”安藤昇”に仮託しながら”生きた人間ドラマ”に、創りあげたいと思っています」
抱負を語る加藤泰監督/プレスシートより
松竹DVD倶楽部 公式サイトから引用
そして、この安藤昇の出会い、彼の勧めによって、中ドメで燻っていた菅原文太は松竹から東映に移籍、後に見事な花を咲かせることとなる。