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第16回明治大学シェイクスピアプロジェクト「ローマ英雄伝」の思いで、映画「ジュリアス・シーザー」(マーロン・ブランド版)

2004年に始まった明治大学シェイクスピアプロジェクトは、元々文学部の演劇学専攻の教育プログラムから発したものあだが、その後しだいに全学部から多数の学生が参画するようになり、今では毎年のように100名を超す学生が携わる、毎年異なるシェイクスピアの戯曲の公演を行う、年一回の学生演劇の祭典だ。コロナ禍をものともせず、2024年の第21回公演「お気に召すまま」まで継続している奇跡。

私は2019年11月9日に第16回明治大学シェイクスピアプロジェクト「ローマ英雄伝」(第一部「ジュリアス・シーザー」、第二部「アンソニーとクレオパトラ」)を鑑劇している。
『ジュリアス・シーザー』は、ローマの独裁者ジュリアス・シーザーの暗殺とその後の混乱を描いた歴史劇。『アンソニーとクレオパトラ』は、ローマ帝国の将軍マーク・アントニーとエジプト女王クレオパトラの激しい愛と、それによって引き起こされる政治的悲劇を描いた歴史劇だ。

原作 W・シェイクスピア
台本 松岡和子訳万版
演出 谷口由佳
プロデューサー 武井恵
監修 西沢英治
主催 明治大学

残念ながら、当日鑑賞した記録が手元に残っていない。

それはそれで悔しいので、代わりと言っては非常に難だが、両戯曲とも史実をベースに権力と陰謀、人間関係の葛藤を中心に物語が進行し、政治的な野心と個人的な情熱が絡み合い悲劇的な結果を招く「エピック」であるという点、
および、当日のパンフレットの演出:谷口由佳の言葉にある

実をいうと、初めて松岡和子さんの訳を読んだ時、私の「ジュリアス・シーザー」、「アンソニーとクレオパトラ」それぞれの印象は全く異なるものでした。2つを繋ぐにあたり注目したのが「ローマ市民」の存在です。内乱の1世紀の最中、一定の条件をクリアした人間のみが、選挙権・被選挙権を得、また劇場などの公共施設への立ち入りを許されました。今回は観客の皆さまも、ローマ市民=有権者の1人としてこの激動の時代を見守ってください。

第16回明治大学シェイクスピアプロジェクト「ローマ英雄伝」 当日パンフレットP.9

この太字の言葉をヒントにして、同シェイクスピア戯曲を原作にジョセフ・L・マンキーウィッツが監督・脚本を行った「ジュリアス・シーザー」を鑑賞、その感想を述べてみたいと思う。

みんな知っている?「ジュリアス・シーザー」のあらすじ。

第1幕
ローマの人々がジュリアス・シーザーの勝利を祝っている中、一部の貴族たちは彼が権力を握りすぎていることに不満を抱いています。キャシアスはシーザーの権威を疑い、彼を排除しようと考えます。キャシアスはシーザーの親友であるブルータスを説得し、シーザー暗殺計画に加わらせようとします。ブルータスは苦悩しますが、最終的にはローマの自由を守るために参加を決意します。

第2幕
陰謀者たちはシーザーを暗殺する計画を進めます。シーザーの妻カルプルニアは不吉な夢を見て、彼に元老院に行かないよう説得しますが、シーザーは無視して出かけます。暗殺者たちは計画を実行する準備を整えます。

第3幕
元老院でシーザーは暗殺者たちによって刺殺されます。有名なセリフ「ブルータス、お前もか?」(Et tu, Brute?)はこの場面で語られます。シーザーの死後、ブルータスは市民に対して、自分たちがローマのために行動したと説明します。しかし、シーザーの盟友アントニーは巧みな弁論で市民の感情を煽り、陰謀者たちへの反乱を引き起こします。

第4幕
アントニー、オクタヴィアヌス、レピドゥスの三頭政治が始まり、陰謀者たちとの戦争の準備が進められます。一方、ブルータスとキャシアスは内部分裂を起こしますが、最終的に和解し、戦いに備えます。

第5幕
フィリッピの戦場で決戦が行われます。ブルータスとキャシアスは敗北し、それぞれ自ら命を絶ちます。アントニーはブルータスの死を悼み、彼を「高潔なローマ人」と称えます。

(Chatgptで生成)

まずは1951年版の以下のキャストに注目。

アントニー - マーロン・ブランド
ブルータス - ジェームズ・メイソン
カシアス - ジョン・ギールグッド
ジュリアス・シーザー - ルイス・カルハーン
カスカ英語版) - エドモンド・オブライエン
カルプルニア英語版) - グリア・ガーソン
ポーシャ英語版) - デボラ・カー

太字に示す男優5人は、全員舞台の経験を経て銀幕デビューしている。皆、シェイクスピア演劇とは何かを知り抜いてフィルムの前に現れている。
映像という媒体に自身の演技を後世に永久に残す唯一の機会、二度とないかもしれない。だからこそ「誰もが主役足らん」と考え抜いて、しかしいつも舞台に上がっている様に「俺が主役」たろうと、それぞれの役を演じている。マンキーウィッツはこれを監督として見事にさばいている。

史実、ジェームズ・メイソンが「ブランドが目立ちすぎだ!」とクレームを入れたほど、当時すでにハリウッドの暴れん坊だったマーロン・ブランドを、マンキーウィッツ自ら説得し、アントニーという役が突出しすぎないように彼の演技を押さえた、という逸話がある。

それぞれの役のハイライトを見ていきたい。

シーザーは民衆に歓呼の役で迎えられると皇帝になってもいいと思う、他方で妻が不吉な夢を見たと聞いて「今日は元老院に行きたくない」と言い出すなど、強さと弱さが同居した人物。
第一幕第一場、目の見えない占い師に2度、特別な発声で、歌うように「シーザー、3月15日に注意を」と言われたときの、やや動揺しつつもそれを平気で振舞おうとするシーンなど、その骨頂と言えるだろう。

ともあれ、ローマの国会議事堂でこのシーザーが暗殺される。「ブルータスよ、お前もか」 という有名なセリフが来るが、物語はシーザーの暗殺で終わりではない。
シーザーの後継者を誰が継ぐのか?高潔かつ教条的な政治家ブルータスとアジテーター、「ポスト真実」型の政治家アントニーの戦いが始まる原作舞台第三幕第二場の再現。結論を先に言ってしまえば、ここがクライマックス。ブルータスが負けてアントニーが勝つ演説合戦。
以降の流れ:
シーザーの養子オクタビアスとアントニーが権力を握り、ローマを逃げ出したブルータスとキャシアスが仲違いしたかと思えばすぐ仲直りし、シーザーの亡霊がブルータスの前に現れ、フィリッピでの戦いでキャシアスとブルータスが死に、横たわるブルータスの遺体の前に立ってアントニーが「(他の連中と違って)ブルータスはいい人だった」と精一杯フォローもとい追悼して去るラストまでは、蛇足のようなものだ。

ブルータスはじめとするシーザーの暗殺者たちが現場から立ち去った後、アントニーは、ボンペイ像前のシーザーの死体に歩み寄り、跪き、まずは彼の死を悼んだかと思うと、次第にメリハリが効いた、若さ漲る身体から、皮膚から、心の底から、湧き上がる怒りの炎さえ感じさせる熱量で、シェイクスピアの流麗な言い回しを霊気のように発しつつ、ブルータスへの復讐を誓う。

先にブルータスが演壇に上がり、シーザーの死の理由を民衆へ説明する。
民衆が見つめる中、ブルータスが登場する。  無言で見つめるアントニーを尻目にブルータスは両手を上へ挙げ、石段を降りて行き、演壇の正規の位置まで歩むと次は両手を左右いっぱいに広げ、アントニーによるシーザーの追悼を、民衆に対し、静かに聞いてくれるよう求める。  このときアントニーはひたすら何もしていないかのような、シンプルな姿勢を保ち、目の玉と目線だけで佇んでいるにも関わらず、圧倒的な存在感。

ブルータスが退場すると、静止していたアントニーが、いざ、追悼しだすと、無言の圧倒的存在感との落差を利用したかのようなパワフルさで怒りを表現する。
すなわち、アントニーは、特徴的な表現で、シーザーの遺体の前に跪き、キャシアスとキャスカとブルータスが刺した跡を見せ解説し、シーザーの最後を再現していき、残るは血に染まった反逆者のみ、と絶叫する。
次いでシーザーの遺体を巻いていた布を剥がし、その無惨な姿を露わにする。  
いきりたつ民衆を、待て、と両手を挙げて静止する。もちろん、騒動を収めるためではなく、騒動を大きくするために、追悼を再開しながらも、たくみな修辞で、民衆を扇動する。
もうたくさんだ!と抗議活動に移そうとした民衆を再度、アントニーは止め、シーザーの遺言状を取り出し、読み上げて、もっと騒動を大きくするためのトドメの一撃。

Marc Antony: Why, friends, you go to do you know not what! Wherein hath Caesar thus deserved your love? Alas, you know not! I must tell you then. You have forgot the will I told you of. Here is the will, and under Caesar's seal. To every Roman citizen he gives, to every several man, 75 drachmas!

全てのローマ市民に75ドラクマ与える。
庭や東屋や果樹園などテベレ川のこちら側全てを譲る、と書いてある。これがシーザーだ。こんな者が他に居るか、と絶叫して、騒動を最大限に膨れあがらせて、締めくくり、不敵な笑みを浮かべながら引き上げていくアントニー。  
民衆の信用は失墜し、ブルータスらはローマを追われる、アントニーの演説前には到底あり得なかった展開。演説を聞くローマの民衆を画面いっぱい埋め尽くすほど配置して、マンキーウィッツは、ブルータスの演説、アントニーの演説を目の当たり、いまごとにさせて、あたかもその時代のローマに生きているかのようなリアリティを観客に共有させる。権力者を殺して世の中が変わるのだったら、言葉など要らないのだよ。

マンキーウィッツはこの演劇を映画に翻案するにあたって、「演劇なんて見やしない」アメリカ一般大衆向けの見事な導入部を用意している。第一幕第一場をスペクタクルで表現することで、観客をローマ紀元前44年へと引き込むのだ。
ファーストカットは、奥を高くして、そこから人々が行き来していて、上手へ横移動撮影してジュリアス•シーザー像に辿り着く。
奥から2人の男性:マララスとフレビアスが現れ、笑い声を上げている集団へ話しかける。それは、怒りに満ちた喋り方で、多くの人々へ訴えかける。
時代錯誤・仰々しいように見えて、よくよく聞いてみるとシーザーへの糾弾の言葉に満ちている。
これは当時ジュリアス•シーザーによる独裁が近づいていることを危惧した反シーザー派の郎党であれば用いるであろう言い回し。つまり限りなく野次に近い、怒りの言葉。
2人は連行され、オーバーラップして、群衆の見つめる先に凱旋行進する人々。   クレーン撮影で、振り返る男性をとらえる。
彼こそが、ジュリアス・シーザーである。  

まとめると、初見では「ただの古臭い映画」であっても、二三度見返すと、マンキーウィッツが繊細な注意を払ってシェイクスピア演劇を、いま時分にも通じる出来事としてフィルムに焼き付けようとしていたのが、よく分かる。
1953年当時であれば、一部の声が大きい連中のために大衆が煽動され、結果アメリカ全体がめちゃくちゃに寸断されたレッド・バージを、当時観たアメリカ人に思い起こさせただろう。

古典といえど、演出次第でいくらでも現代に通じる物語を送り出すことができる。このテーゼを何処かに置き去りにして、マンキーウィッツはその10年後、見世物化をひたすら続けていたハリウッドで、観客不在の映画を世に送り出す。それが「クレオパトラ」だ




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ドント・ウォーリー
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