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追憶の映画「その後の仁義なき戦い」…滅びゆくものの為に。
「仁義なき戦い」という金字塔がある。 深作欣二監督、菅原文太主演の全5作。
あらすじをひとことで言えば
第一作の「野良犬」たちが権謀術数に長けた大幹部に成長、腹の探り合い、電話での駆け引きをしているうち、かつての自分たちのような若者らが跳ね上がり犬死する諧謔的な群像劇
「映画の奈落: 北陸代理戦争事件」伊藤彰彦・著(国書刊行会)より引用
エポックメイキング。
東映に実録ヤクザ映画ブームを起こし、(それは後のVシネマにつながる系譜)
かつては東映によって秘蔵っ子扱いされていた、映画史に残る金字塔。
称賛の言葉は、数え切れない。
それ(1973年)から6年経った1979年。同じ深作=菅原コンビの「新・仁義なき戦い」シリーズも終わり、実録やくざ路線そのものが下火になった頃、とつぜん「仁義なき戦い」をタイトルに冠する映画が、蘇った。
それが、工藤栄一監督 「その後の仁義なき戦い」。
本作、今では評判が非常に悪い。なぜか?決まっている。「仁義なき戦い」の意匠がほとんど見られないからだ。
そこにはシリーズおなじみ
テロップやストップモーションの多用も
荒れた粒子のフィルムも、キノコ雲とともに現れる強烈なアバンタイトルも
ズンズンズンズン……と、血の抗争を予感させる怪しく鳴り響くテーマ曲も
ない。
整理された時系列のもと繰り広げられる政治的駆け引きも
山守=広能の関係に代表される様な、戦後保守政治のメタファーもない。
菅原文太や小林旭といった看板スターの出演もない。
そもそも舞台が広島、呉 ですらない。
かろうじて、原作は飯干晃一。(これも名義貸しでしかないだろう)
だが、この映画には、一貫した光 「迫力」がある。
臨場感溢れる生々しい迫力ではない、精一杯生きた死に物狂いの迫力が。
「(やくざにとって)戦後の良い時代を送った」若い男たちへの批評代わりに、
「(やくざにとって)良い時代から乗り遅れた」若い男たちへの哀感と同情が。
本作が滅んでいくものへの感傷に溢れているのは、予告編からして一目瞭然だ。
※あらすじはこちら!
全国に600団体、4,500人の構成員を抱える大阪の大組織・石黒組若頭が交通事故で死亡した。それを受け石黒組系の浅倉組と花村組の組長二人にその座が預けられ、次期組長に繋がるその地位を巡り浅倉は謀略を進行させてゆく。北九州の竜野組若衆・根岸昇治と水沼啓一は浅倉組に行儀見習いとして預けられていた際に、浅倉組系津川組の若衆・相羽年男と意気投合する。その後も3人の交流が続く中で、年男は昇治の妹・明子と知り合い、竜野組長の仲介で婚約をする。だが浅倉組と親子の盃を交わしていた竜野組は、浅倉たちの描いた画により破門に追いやられ、竜野組と敵対する藤岡組により組長が殺害されてしまう。その手引きをしたのは年男だった。昇治・啓一を裏切り、親の命令に従った年男は血みどろの戦争に巻き込まれていた…。 日本映画史上に不滅の足跡を残した衝撃の実録シリーズ最終編。暴力組織の新旧交代に伴う激烈な内部抗争が繰り広げられるさなかで、翻弄される若いヤクザたちの友情、裏切り、戦い、生きざま、死にざまを、監督の工藤栄一が光と影のダイナミズムで描き尽くし、“壮烈の美学”を展開している。
(1979年5月公開 東映京都作品)
東映ビデオ 公式サイトから引用
成田三樹夫、金子信雄、松方弘樹といった「仁義なき戦い」のレギュラーも出る。が、彼らは狡い・あくどい所行や演技をノルマ程度に達したら、直ぐ画面の奥に引っ込んでしまう。若頭や親分らずるい奴らが主役ではないということだ。
重要かつ出ずっぱりなのは以下の四人。
いつもグラサンかけてる根岸昇治(演:宇崎竜童)、
不幸の影をいつも漂わせる根岸明子(演:原田三枝子)、
気弱で昇治の後をいつも付けている水沼啓一(演:松崎しげる)、
そして厳つく相羽年男(演:根津甚八)。
男三人は組織の中でも、下の衆だ。物語は、啓一が述懐する形で(つまり彼のナレーションと共に)進んでいく。
時の流れるままに。
冒頭から「不穏さ」「曖昧さ」はずいぶんと醸されている。一台の車が夜の奥で炎上している。駆けつけるサイレン、その中を淡々とOPロールが流れていく。
それが、石黒組若頭の死。それが、抗争の引き金を引くとは誰も知らない。
だが「悪い予感がする」 「これから悪いことが起こるに違いない」
そんな不穏な予感から、映画は始まるのだ。
これが深作欣二監督作品なら、いつ誰がどこで死んだか、テロップをわかりやすく出したことだろう。
果たして、若頭の死を引き金に、やくざの抗争が始まるのだが…とにかくこの映画は目まぐるしい。
本家のように分かりやすいテロップもなく、誰が死んだか、どことどこが戦っているのか、松崎しげるの、ぼそぼそとしたナレーションで語られるのみ。
大が中小を潰していく構図、というのは本家と変わりないのだが。
それは、友情と裏切りとか、人の生き死にとか、そうしたものを、いつまでも忘れられない時代 ではなく
そうしたものを、みんな呑み込んで流れていく時代を語りたかった からだろう。
確かな記録として捉えるか、朧げな記憶として捉えるか。監督のスタンスが、はっきり現れている。
そして、その時代のうねりの中で、男三人のうちひとりは足を洗って生き残り、ふたりは逃れることができず死ぬ。
竜野組のふたりは、くっきり運命が明暗分かれる形となる。
兄貴分・昇冶は、鉄砲玉として本懐を遂げた直後に惨殺される。
弟分・啓一は歌手としてデビューし、テレビのステージに出るまで出世する。
男三人の心情をよく言い表しているのが、公開当時作られた惹句だ。
俺たちは闇夜の閃光。
炎の中からはじけ飛ぶ最後の凶弾。
友達(ダチ)よ!お前は何処まで走れるか。
「惹句術―映画のこころ 」ワイズ出版:増補版 396ページ
カメラは動くときは激しく動き、動かないときは遠くから群像を見つめる。
レイニーウッドの音楽は、小刻みに震えることもなく、抑揚を抑えている。
静かに、若者たちが「記憶」として、フィルムに焼き付けられている。
そこに、生のぎらついた欲求はない:死に急ぐ。あたかも、死にいくものの「けじめ」というべき強さを、感じさせようとするかの様に。
生き残るものと死に急ぐものの対比。
セリフを極限まで削ぎ落とし、命を凝縮した瞬間が、最後の20分に現れる。
滅びゆくもののために。
経過を省いて述べてしまうと、年男は(明子共々薬物中毒にさせられたのもあって)狂犬と化していく。そして、ヤクと引き換えに殺人を重ねていく無感動なヒットマンとして、体良く利用される。
「広島死闘編」の山中正治 by 北大路欣也 といえば、分かりやすいだろう。
だが彼は、山中の様に「予科練の唄」を口笛で吹くことはない。
潜伏生活の疲れもあってか、いつも押し黙って、どこか遠くを見つめている。
それでも、堕ちるところまで堕ちきっても忘れられない何かを、胸に秘めている:彼は、それを自身最期の夜に発露させる。
年男はとある食堂で、飯をがっつく。
(この時の、配置転換された会社員:萩原健一 との寸劇も興味深い。)
テレビを見ると、啓一がステージに上がって熱唱している。
年男は、物食う手を止めて、黙って啓一の歌唱に耳を澄ます。
演歌調の歌詞が、突然、やかましい歓声に変わる:他の客が野球中継にチャンネルを切り替えたのだ。年男はずかずかテレビに近づいてチャンネルを戻す、他の客が「何すんのや」と切り替える、それもまた戻す、当然、諍いになる。
普段他人と深く接さない啓一が、他人と関わってまでステージを守ろうとする。
死にゆくものだからこそ、生きていく者に、強いシンパシーを抱くのだ。
これからを生きようとするものを、必死で守ろうとするのだ。
彼はラブホテルの一室に身を潜める。そしてベッド横の鏡に向けて手持の銃を構える。「You talkin' to me?」と呟きながら鏡に映る自分に銃を向けたトラヴィスと、構図だけは同じだ。
だが年男は、自分が秩序のために人を裁くべく神に選ばれた、などという大それた妄想は抱いていない。
気怠げに銃を自分に向けて、死に焦がれた、つかれた表情を浮かべるのみ。
そして彼の顛末は、ポッと出の、字幕で語られる。
昭和五十四年五月七日 相羽年男(二十六才)、
大正区平尾町路上にて津田組組員により射殺された
下の衆が犬死にする文脈では、本家と同じ。
ただ、「代理戦争」とは、このラストが与える余韻は全く違う。死者たちと同じ目線に立った、共感と哀感だけがある。
結論。 やはり「仁義なき戦い」の看板は重かった。
しかしここには、監督が最後まで見せた映画への妄執が、確かにある。
監督は記憶というものを、光と影のコントラストを活かした、淡く青がかったエモーショナルな映像美の中に閉じ込めた。(雨で濡れ細って、てらてら光る地面の強いカットは、監督の十八番だ。)
それが、当時ごくわずかの人の心を打ち、今もごくわずかの人の心を打つのは、間違いない。
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