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時代劇「赤穂城断絶」_ 大石内蔵助、死も厭わぬ不退転の覚悟。

日本映画全盛期といえば、年末正月興行の忠臣蔵と夏の怪談映画。
それが年中行事という時代もあった。今は全くそうではないが。

そういう伝統がまだかすかに息づいていた時代だからこそ作ることのできた、
ちょっと古い「忠臣蔵」映画をご紹介。
1978年製作・公開、深作欣二監督の「赤穂城断絶」。

※あらすじ・スタッフ・キャストはこちら!

ポイントはひとつ。萬屋錦之介主演する大石内蔵助だけに注目すること。
萬屋錦之介は、毎年のように忠臣蔵映画が製作・公開されていたの最後の残香を吸ってキャリアを積んできた時代劇俳優。「昔ながらの、オーソドックスな忠臣蔵」で主役=大石内蔵助を演じることに拘りがあった。

結果、久しぶりに作られた忠臣蔵映画において
「変わった味で忠臣蔵を描きたい」深作欣二の思惑を超え
話はオーソドックス、しかし彼自身の異様な思い入れのためにある種の狂気が乗り移った大石内蔵助を、見事に演じている。

あっさりとした筋書き、アクの強すぎる大石内蔵助。

例によって、松の廊下で刃傷沙汰が起こる。
仮にも藩主を務めるには青臭く感情的すぎる浅野内匠頭が、
高貴な身分とは到底思えないステレオタイプな悪玉、山守親分もとい吉良上野介を仕留め損なう。
みごとに戯画化、類型化されている:秘密めいた動機とか心理的描写の細やかさとか、そういったものはない。
「自明のことはくどくど説明しない」そう言いたげに。

浅野が可愛そう、吉良が憎たらしい・吉良の首を獲りたい といった
怨讐の色が薄いので、物語をあと2時間引っ張るためには、
大石内蔵助がどれだけ強烈な人物であるかが、重要になる。

名優・萬屋錦之介演じる大石内蔵助、
「戦国の世であれば活躍してたであろう」柳生宗矩ばりの謀略家。

じじつ、中の人は「春の坂道」「柳生一族の陰謀」と宗矩が当り役なのだが。

赤穂城引き渡しの段に至って、眼が爛々と輝く。
それは「主君の恩に報いる、仇を討つ」という理由以上に
太平が破られた、今こそ自らの智謀・活かす機会を得た、肩書き捨てて本来の自分らしくあれると水を得た魚となったことが、大きいようだ。

だから彼は、躊躇うことなく
事の是非、善悪を超越した、不退転の決意で、討入仕掛へと
いざ傾いてみせる。


放埓の中にも気品あり。そして、絶えず死が有り。

赤穂城引き渡しの使者がやってくる。幕閣三名、直々の御参りだ。
この大石内蔵助、
それにも怖気付くことなく「片手落ちの裁きに」異議申し立て候と
少年のようなまっすぐな眼差しで、裁きの不当を訴え、議論を挑む。
「だまらっしゃい!」と三船敏郎演じる幕閣のひとり:土屋逵直に斥けられると
こんどは
「殉死か、それも一興…。」
と籠城の決意を、藩士全員の殉死へと改める。

大石の狂気に圧倒されつつも、逃げ台詞を吐いて、使者たちが去った後、
死の恐怖に逃走せず、城に寄り集まった「信用に足りる家臣たち」に向けて、
「御公儀への反逆に踏み切るご所存…」と討ち入りを訴えるのだ。
異様な気配のために、思わず隠謀に賛同してしまう勇士ども。

城を追放されてやることは、おもむろに機が熟すのを待つこと、それだけ。
ともすればはやり勝ちな、一党の客気を控制し、じっと待つ。
苦衷ひとつ見せない。
大石内蔵助ひとりだけが、悠然としている。周囲の思惑を超越している。
まるで、討ち入りが叶うことを予感しているかのように。
いや、それ所か、討ち入りの後、どうせ御身が死に行くものと、確信しているかのように。願いさえ叶えばあとは世の中がどうなったって良い、と言いたげに。
「無敵の人」といった感だ。

大石内蔵助の廓遊びが、(いささか冗長な)討ち入りまでの我慢劇の中で
強烈なハイライト(かつ大石内蔵助の心象を唯一描くシーン)となる。

長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、三味線の音を聴く中に
なまめかしい姿の女たちが踊る。
彼は片手に女を抱きながら、もう片手で絵筆を持って何かを描いている。
花に囲まれ絵を描いて遊ぶ姿、気品に溢れ、色づく。
やがて内蔵助は筆を下ろす。
描いたのは、髑髏の晒し首。周囲が驚く中、彼だけがにやりと笑う。
周囲が太平の世がもたらした平安の祝福と生命の喜楽に溢れるなかで、
彼ひとりだけが死を見つめている。
いや、修羅の世界に堕ちている自分を、楽しんでいる節すらある。
これが戦国の武士の心根か。ぞっとさせられる景色がある。

この強烈な個性の前には、ほかの浪士たちはモブに埋没するほかない。
彼らが駆られる義憤、焦燥、疑惑といった心象は
超然とした態度の前では、ちっぽけなものに見えてしまう。

一部は強烈な印象を残そうとしてか、脱落し落魄し、悲惨のうちに死んでいく。それすら、大石内蔵助の前では薄味だ。(彼はふん、とうなずくのみ。)

唯一気を吐いている不破数右衛門(演:千葉真一)ですら、
同様に萬屋&千葉が主演した「柳生一族の陰謀」の柳生親子よろしく、
「裏の顔」として宗矩もとい内蔵助と一心同体で動く。
つまり、大石がやるべきチャンバラを一手に引き受けるだけの役割
敵方が放つ刺客の魔の手から大石内蔵助を救ったり、
討ち入り中、上野介そっちのけで渡瀬恒彦扮する清水一学との一騎打ちに延々と臨んだり、いずれにしても、黒子としてしか動けない。

「武士道はシグルイ」とは、まさにこのこと。

いともあっさりと討ち入りは終わる。
一党四十七人に対する、公儀の御沙汰は、切腹。
大石内蔵助を残して、四十六士が、お先に、つぎつぎと死んでいく。

最後に大石内蔵助が腹を切る番だ、
がらんとした廊下をしずしずと歩いていく。
白州まで来た時、46名分の棺が並んでいるのを目にして、
いっしゅん、彼は英霊たちに立礼する。
やがて正座して、最後に言い残すことは何か、問われた時に彼がいうのは

**身分の上下を問わず武士は武士でございます。

手前の方があの者たちに引っ張られ、ここまでたどり着いたのでございます。**

全て言い終えた後、腹をひといきに横一文字にかっさばく。
そして傷みを顔に何ら浮かべることなく、目で介錯人に合図する。

結論から言えば、
大石内蔵助はあらかじめ定められた運命に導かれるかのように
満足のままに死んでいく。
その中で、四十六士と吉良上野介(と吉良家一門)は人柱となった、と言うほかない世界。

史実、大石内蔵助が辞世の句に
「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」
と詠じたような、徹底的に彼一人だけで完結する世界、
大石内蔵助、彼一人だけが、オンステージ。

大石の「死屍累々の大河をためらわない」狂気一点に絞った、かくも美しく、恐ろしい忠臣蔵なのだ。


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ドント・ウォーリー
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