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黒澤明監督「八月の狂詩曲」_ 長崎は土砂降り、おばあちゃんは崩れ、原風景は壊れる。

8月9日のナガサキを題材に
戦争を想う映画、まだ記憶が風化しきってなかった時代の語りを、本日は紹介。

ようやっと8月30日に再開される「麒麟がくる」

ストーリー、キャスト、音楽、その全てに魅力が詰まっているが、
とりわけ目を惹くのが色とりどりの衣装だろう。
衣装デザイン:黒澤和子のセンスがいかんなく発揮されている。
「マスカレード・ホテル」もそうだけど、彼女が衣装を手だけた作品では、どんな邦画でも気品がワンランクアップする。コスチューム・プレイ になる。


その黒澤和子が最初に衣装を手掛けたのが、実父である巨匠・黒澤明の1991年(平成3年)公開監督作品「八月の狂詩曲」だった。 
リチャード・ギアのポロシャツ、村瀬幸子の割烹着が印象的。
日米の対比の中に、老いた黒澤明の戦争に対する想いが詰まった、一作だ。

ストーリー
長崎から少し離れたお祖母ちゃんの家で、四人の孫は夏休みを過ごしていた。そこへハワイから手紙が届いた。その一通が、お祖母ちゃんの兄・錫二郎の息子を名乗るクラークというアメリカ人からで、不治の病にかかっている錫二郎に一目逢ってほしいと言う。そして、クラークが日本にやって来る。
スタッフ
原作:村田喜代子「鍋の中」
脚本:黒澤明
監督:黒澤明
撮影:斎藤孝雄/上田正治
音楽:池辺晋一郎
キャスト
村瀬幸子/吉岡秀隆/大寶智子/鈴木美恵/伊崎充則/井川比佐志/根岸季衣/河原崎長一郎/茅島成美/リチャード・ギア

松竹DVD倶楽部 公式サイトから引用

あらすじの通り、長崎で原爆の恐怖に間近に接したお祖母ちゃん(村瀬幸子)のもとへ、戦争を知らない外国育ちの甥(リチャード・ギア)がやってくる。
「おばあちゃん家に帰省して、一家が過ごす夏休み」
要約すると、ほのぼのとした話。 
しかし、中身は相当深刻だ。最後のシーンから計算して、話を組み立てている

だから展開に無理がある・説明台詞になっている箇所があるのは、否めない。
甥が来日する伏線として「長崎の悲惨な歴史をしごく真面目に語る」4人の孫の造形など、いささか不可解だ。
それを差し置いても、本作を観る価値は、お祖母ちゃんと甥(=日米)の和解、お祖母ちゃんの割烹着に代表される喪われていく日本の風景、何より、ラストの土砂降りにある。


表の顔:日本とアメリカの和解。

は、ご覧になった方であれば、ぴんとくるだろう。
お祖母ちゃんは、アメリカに対する不信感から、ハワイ行きを最初は拒む。
それでも催促されて、お祖母ちゃんは原爆忌が終わってから行くことを決意し、電報を出す。電報を受け取って間も無く、急遽、甥のクラークが来日する。

お祖母ちゃんがハワイ行きを拒むのはアメリカを恨んでいるから、
クラークが来日したのは、お祖母ちゃんが電報に何かまづいことを書いたから、
たとえば「原爆を思い出す」様な記事があって、それに気分を害し、親族の交流を絶つためではないか、
と、孫たちは、年相応にしては聡すぎる憶測をする。

ところが、来日したクラークが最初に向かったのは、お祖母ちゃんの夫が1945年8月9日に吹き飛ばされた爆心地:いまは小学校の校庭となっている場所であり、被爆者たちがジャングルジムに献花するなか、孫たちと一緒に祈りを捧げる。

この辺り、詳細を記すことは省くが、黒澤は原爆投下に関する日米の認識の相違を浮き上がらせ、そこに擬似的にでも和解の構図を成立させようとする。


裏の顔:日本の原風景の喪失。

もう一つ、お祖母ちゃんのキャラクターを観察すれば、把握できる主題がある。

平和公園から「長崎の悲惨な歴史をしごく真面目に語って」沈痛な面持ちで、孫たちは山奥の田園にある実家へ帰宅する。彼らを、田んぼの畦道で、夕闇に映える白い日傘を振り上げた割烹着姿のお祖母ちゃんが出迎える。
お祖母ちゃんが夕食の準備ができたことを告げる次のカットは、いかにも日本的な囲炉裏を囲む家族の食事風景だ。茅葺き屋根の本建築で、中に入れば懐かしいような涼しい空間。
91年時点でも、相当珍しかった、日本の田舎の原風景。
30年経った日本では、ますますお目にかかれない風景だ。

注目して欲しいのは、そんなお祖母ちゃん自身が崩れつつある、ということだ。
耳もはっきりしない。喋りも呂律が回らない。料理の腕も落ちた。(前述の夕食のシーンで、暗に孫たちは、お祖母ちゃんの味付けを批判する。)
孫たちはそんな暮らしに飽き飽きしている:お祖母ちゃんを評する孫たちの会話に、日本の原風景の崩壊が暗示される。

ともあれ。時々ぎょっとする絵作りはあれど、過半において毒のない、どうってことない映画だ。
様々な体験を経て、「日本を知った」クラークが帰国した後、加速度的にお祖母ちゃんは崩れていく。
お祖母ちゃんは自分の夫を奪ったアメリカの行為への怒りを支えに、今まで生きてきたのかもしれない。クラークとの出会いを終えた。お祖母ちゃんのなかで、米国に対するいちおうのけじめをつけた。だから、あとは崩れるだけなのだ。


おばあちゃん=日本の原風景、崩れる。

雷雨の夜に突然「ピカが来た」と叫んだり、自分の子供を錫二郎と見間違えたり、お祖母ちゃんが崩れていく姿、見ていて痛いし、恐ろしい。

そしてクライマックスは雨の中、一人駆けていくシーンだ。
キノコ雲のような雷雲が空に広がったのを観て、おばあちゃんが狂気に陥り、あの原爆の日と同じように、嵐の中を駆けていくのだ。孫たちは必死になって、それを追い掛ける。

凄まじい暴風雨。音は、雨風の轟音以外何も聞こえない。
 一列になって画面右から左に走り抜ける家族がロングショットで映る。画面は、傘を掴みながら風に逆らって歩くお祖母ちゃんと、それを追う孫たち、ひとりひとりを順に映し出す。そのリズムが徐々に速まり、頂点に達したところで「おばあちゃーん!」という孫たちの声が響く。
すると、お祖母ちゃんの差す傘が逆さまによじれ、刹那、子どもの合唱と軽快な伴奏によるシューベルトの「野ばら」が鳴り響く。

いっけん唐突なこの「野ばら」は、黒澤明が青春時代に影響を受けた1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」から引用したもの:映画序盤〜中盤で孫たちが綺麗な「野ばら」を弾こうと悪戦苦闘する様が、伏線になっている。

音楽の中、逆さまの傘を差して歩むお祖母ちゃんと、孫たちの単体のショットがスローモーションで繰り返され…劇的に映画は幕を閉じる。

おばあちゃんは、
「原爆という遠い日の出来事」であり「日本の原風景」の象徴でもある。
どこまでも逃げていく「日本」を、未来を担う孫たちが逆風の中で追いかけていく構図で、映画は終わる。
印象的なのは、孫たちが「日本」を捕まえられずに、映画が終わること。
「もはや戦後ではない」昭和を終えて、あるべき日本の姿を追い求め混迷の時代=平成をさまよう、日本人を暗示する、残酷な終わり方だ。


結論。
土砂降りの向こうは虚無だ、
雨というものを豪快に捉えられる黒澤だから、成されたドラマだ!
反戦映画、であるだけではない。 割烹着の村瀬幸子、「日本の原風景」が消え行く様、最後の土砂降り、ハードな描写に目を凝らして頂きたい、と想う。


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ドント・ウォーリー
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