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相克と赦し。映画「戦場のメリークリスマス」と原作「影の獄にて」。

1983年の邦画「戦場のメリークリスマス」は当時大ヒットを記録し
今でも「なぜか」クリスマス映画として親しまれている 大島渚監督作品 だ。

ジャワの日本軍捕虜収容所を舞台にしたローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説「影の獄にて」の映画化を構想した大島は、イギリスの若手プロデューサー、ジェレミー・トーマスと組み、ニュージーランド領ラロトンガ島で撮影を敢行して本作の完成にこぎつけたが、衝突する日英の軍人をデヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしという異色のキャストが演じて騒然たる話題を呼んだ。本作で描かれるのは日本軍と西洋人の捕虜をめぐるさまざまな摩擦や葛藤であるが、決してそれは文化的な対立といったものに要約されるものではなく、登場する全ての人物たちが各々の国家を背負いながらも、あくまで個人の思いやトラウマを抱えながら揺らいでいる。それでもなお不自由さのくびきに囚われてしまう人々が愛によって解放される奇跡の瞬間を、実に特異なイメージの連鎖によって描き上げた異形の大作である。坂本龍一の手になるサウンドトラックは余りにも有名であり、興行的にも大ヒットを記録した。

大島プロ 公式サイトから引用

「戦場のメリークリスマス」は見るたびに印象を変える。
ある時は、「個」が見えない日本兵の眼差しに、ぎょっとさせられ、
ある時は、透き通るような白色の肌のデビッド・ボウイに惚れ惚れし、
ある時は、ヨノイ大尉の自ら手本を示すリーダーシップに感じ入るものがあり、
またある時は、数々の残酷な処刑シーン(えげつないことに、冒頭では暗に民族の問題すら忍ばせている)に目を伏せたくなる。
何度見ても印象が変わらないのは、坂本龍一の旋律、たけしの笑顔だけだ。


さて、本作の原作「影の獄にて」については、あまり語られていない。

オレンジ自由国(現・南アフリカ共和国)出身の作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト(1906−1996)がジャワでの自らの捕虜体験に基づき記した小説だ。
映画は概ね原作に沿って進むが、大きな違いがある。それは、
「日本の精神を受け入れ、かつ救済する力」だ。
大島渚が日本の政治と一体化した信仰の負の部分・不寛容を断罪したのに対し、
ヴァンデル・ポストは、信仰の善の部分・寛容の精神を描いた。

作者によりクリスマス三部作と呼ばれているこの本は、
次のような三部構成になっている。
第一部『影さす牢格子 クリスマス前夜』(A Bar of Shadow, 1954)
第二部『種子と蒔く者 クリスマスの朝』(The seed and the Sower, 1963)
第三部『剣と人形 クリスマスの夜』

終戦から五年、クリスマスの前日に戦友のロレンスが「わたし」の家を訪ねる。
そのクリスマス前夜に、主にハラの話をするのが第一部、
クリスマス当日に、主にセリアズとヨノイの話をするのが第二部、
クリスマスの夜に、主にロレンスの話をするのが第三部。
映画は、第二部後半のヨノイのストーリーをメインに、第一部・第二部の大半のエピソードを差し込んで、第一部のラストを本編のラストに配置する。

ヴァンデル・ポストは本書を記すにあたり、そうとう日本というものを研究したのだろう:戦前日本を覆っていた武士道、国家神道を「(地域に根付いた)信仰の在り方のひとつ」として客観的に捉えている。

当事者である日本人であれば、国家神道を一方的に賛辞するか、一方的に嫌悪するかになってしまう:これまでも、これからも、第三者でなければ決して書けはしないだろう。

訳もみごとだ、ヴァンデル・ポストが言わんとすることを、美しい日本語で訳出ししている。


異なる国のふたり、恩讐の彼方に、何がある。


さて、映画と原作では大きな違いがある。ハラとヨノイ、ふたりの死に様だ。

第一部『影さす牢格子 クリスマス前夜』はヨノイとセリアズの物語。
この二人のホモセクシャルなドラマは・・・くどくど記さない。映画も原作も流れは同じだ。 大きな違いが、しかし最後に現れる。

映画において、ヨノイは断罪され、処刑される。ヨノイは加害者で、セリアズは被害者の二項対立。ヨノイは、自分の命でしか、セリアズ殺しの罪を償えない。

他方、原作において、ヨノイは生き残る。そして彼らしいやり方で自らの罪を潅ぐ。すなわち、夷狄のセリアズの髪を、自身の神社に捧げるのだ。
ヨノイは、ロレンスにこの旨を手紙で伝える。手紙は、ヨノイの自作の詩で結んである。社前に赴いて深く礼をし、鋭く柏手うって、祖先の御霊に帰朝を報告し、祖霊に読んで頂くべく、つぎの詩を奉納してきたのだ、と。

春なりき。
弥高(いやたか)き祖霊(みたま)畏(かし)こみ
討ちいでぬ、仇なす敵を。
秋なれや。
帰り来にけり、祖霊前、我れ願う哉。
嘉納(おさめ)たまえ、わが敵もまた。

p.242から引用

赦すということ。それは互いの信じる神を守るということ。
セリアズの献身によって、ヨノイの魂が救済されたことが、明かされる。

他方、ヨノイには、セリアズ殺し以外にも、収容所での捕虜の極めて劣悪な扱い方(激昂から、ジュネーヴ条約を一度破ろうとすらした)という罪もある。大島渚がこれを許せず、原作からプロットを変えて断罪したのも、よくわかる。


もうひとつは、第二部『種子と蒔く者 クリスマスの朝』より、ハラが戦犯として裁かれ収容された刑務所のシーンだろう。
映画は彼の「めりい・くりすます」のドアップで終わる。
が、原作には続きがある。その笑顔を目撃した、ロレンスの心の声が描かれる。

しかし、とロレンスは言った、目だけは笑っていなかったな。
その目には、些末な時を超越する瞬間の、光が宿っていた。
いっさいのこの世の心の葛藤が、跡形なく消え去り、無用のものと化し、
いっさいの党派心もいっさいの不完全さも去り、深い落ち着いた、
夜と朝とのあいだの輝きだけが、宿っていた。
その輝きが、ハラの奇態な、ゆがんだ容姿を、まるで違ったものに見せていた。
どことなく類人猿を思わせる、先史時代物のハラの顔は、ロレンスが
かつてみたことのない美しいものに変わっていた。
その顔、その古代の瞳に宿る表情。あまりにも心を動かされた彼は、
思わずもう一度、独房のなかに戻ってゆきたい衝動にかられた。

セリアズは、ハラに、こう囁きたかったのだ。

<外の大きな世界の、がんこな昔ながらの悪行をやめさせたり、なくさせたりすることは、ぼくら二人ではできないだろう。だが、君とぼくの間には、悪は訪れることがあるまい。これからゆく未知の国を歩む君にも、不完全な悩みの地平をあいかわらず歩むぼくにも。二人のあいだでは、いっさいの個人の、わたくしの悪も帳消しにしようではないか。個人や、わたくしのいきがかりは忘れて、動も反動も起こらないようにしよう。こうして、現代に共通の無理解と誤解、憎悪と復讐が、これ以上広まらないようにしようではないか>と。

しかし、

その言葉はとうとう口からは出なかった。扉のわきに立つ、
士官としての彼の意識した半身は、疑ぐりぶかい、油断ない看守につき添われたまま、
扉の敷居に立ちつくして、ついに彼をハラのところに走らせなかったのだ。
こうして、ハラとその黄金の微笑には、これを最後と、扉が閉ざされてしまった。

以上、p.79-80から引用

和解への願い。それは、ハラが生きているうちに為されないまま終わる。考えてみれば、ヨシノとセリアズも、一方が死んで後、初めて和解が為されたのだ。
そして第二部は、ロレンスの、切ない言葉で締められる。

そして彼が自分に向かってというより、むしろわたしや暗い空にむかって、
「ぼくらは、いつも、手おくれでなければならないのだろうか?」
と問いかけたとき、彼自身はそれとは知らずに、実はわたしにもその問いをかけていたのだ。
そのことばは、わたしたちと明けの星とのあいだに、さながら、
あたらしい牢獄の影さす牢格子のように宿り、
わたしの心は滂沱たる涙でいっぱいになるのであった。

p.82から引用

悔悟のなかに、ハラとセリアズの物語は幕を閉じるのだ。


同じ国の兄弟、長い年月の先に、なにがある。

もうひとつ原作の特長は、セリアズの弟の存在がクローズアップされることだ。

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※画像はCriterion公式サイトより引用

映画では、ほとんど一瞬で通り過ぎるこの挿話。結果として、前後のつながりを欠いた、初見では訳がわからないエピソードとなってしまっている。数少ない欠点にすらなっている。
これについて、原作では、だいぶ尺を割いて描かれている。

それは、イギリスのパブリックスクールで起こった事件だった。
寄宿舎に入寮する際、新入生いびりの儀式でセリアズの弟が標的にされる。弟は歌を歌わされ、その歌が上手であったためにかえっていじめがエスカレートし、服を脱がされ瘤を笑いものにされてしまう。
最上級生で寮長でもあったセリアズは、止める手立てはいくらでもあったのに、
弟を公平に扱う寮長の姿から離れることができなかった。

この出来事が、弟に、心の傷を残した。

この挿話に続いて、ストンピーというシカの話がある。
角の形が生まれつきイビツなストンピーは、いつも群れの仲間はずれで、鹿狩りでも、みな哀れみをかけ、標的にはしなかった。
しかしある時、兄弟で鹿狩りに行って、あまりに成果が出ず苛立っていたセリアズは、腹いせにストンピーを撃ってしまう。怒り出す弟に、セリアズは狼狽しながら「ストンピーにすりゃ死んだ方がマシだったろう」と苦しい言い訳をする。

かつて見たこともないほど弟が激昂したのは、このときであった。
「どうしてわかるの?」と彼は激しく詰問した。
「生がこいつを必要としたに違いないんだ、でなきゃ、生まれてなんかこなかったのに」

p.152から引用

この言葉をきっかけにして、セリアズの中に<無>が広がっていく。

けれども、あの時からというもの、何年も狩猟を続けてはいるが、昔のように楽しめなくなったのは事実である。
わたしはただ習慣から、銃を撃っていた。狩猟を愛する心は、あの日の朝のストンピーとともに、家の白い壁の背後の、有史以前の隆起の彼方の広漠たる平原に、死んだ。
だがストンピーへの愛は? いつ、どうして死んだのか? 
わたしが弟を生徒たちの奇妙な飢えの餌食にしてしまった午後に、
ひょっとしたら、ストンピーの運命も決まったのだろうか? 
しかし、わたしには問うことはできても、答えるすべがない。
ただこれだけははっきりとわかっている。
前にも話した<無>が成長の糧とするのは、まさしくかくも疑わしき些事なのである。

p.152-153から引用

セリアズは弟を傷つけた罪を背負う、彼の巡礼の旅は始まる。自らの命を投げ出せるようなひりつく戦場:最前線に出ることで、何かを引き受けようとする。

やがて彼はパレスチナにたどり着き、そこでキリストと使徒たちの幻影を見る。
セリアズは自らをユダだと悔いる、その罪はまぼろしのキリストの言葉によって許される。
戦地での経験を経て、彼は弟との和解を初めて果たすことができる。もはや、心残りはない。
だから、セリアズは、ヨノイという野獣と対峙した時、何を惜しむことなく、自らの命を捧げることができたのだ。

映画は、これをデウィッド・ボウイという超俗的な役者の存在感に一存する。


第二部は、ロレンスの口から、こう締め括られる。

生まれ、生き、死に、埋められ、そして祭られた、そのさまざまな土地から、
まるでセリエが甦ってきて、わたしの背後に立って、耳許できっぱり言っているようだった。
「風と霊、大地と人間の命、雨と行為、稲妻と悟得、雷と言葉、種子と蒔く者
――すべてのものはひとつだ。自分の種子を選んで欲しいと言い、あとは、
内部の種子蒔く者に、みずからの行為の中に蒔いて欲しいと祈ればよい。
それだけで、ふくよかな黄金なす実りは、すべての人のものとなるのだ」と。
(『影の獄にて』p.243)

総じて、ふくよかな言葉たち。
興味を持っていただいた皆様に、口に含んで、ぜひ味わっていただきたい物語、だと願う。


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ドント・ウォーリー
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