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別れのとき

 八歳から三十六歳まで、養護学校の寄宿舎をふくめれば、二十八年間も施設で暮らしつづけると、たくさんの人たちがぼくの傍らでこの世を去った。
 
 最初の施設では、同世代の子どもたちのほとんどが寝たきりで言葉が話せなかった。きざみ食やミキサー食が大半だった。
 ずっと酸素テントから出られない人もいた。
 
 言葉が話せなくても、ギャグやダジャレをとばすと全身をつかって笑う何人かがいた。
 プレールームといって、昼間はひろい部屋にマットが敷かれ、寝たままで食事をしたり、テレビを観たりして過ごした。
 仰向きのままでバタフライのようなカッコウをして近づき、ビックリさせたり、アイドルのうたを口ずさんだりもした。
 ぼくにとっては、大切な友だちだった。

 施設に入って間もないころ、隣の修道院でミサが行われた。
一緒に生活していた一人が亡くなったのだった。寝起きする部屋がちがったので、あまりかかわりのある一人ではなかった。名前をおぼえている程度だった。
 それでも、神父さんが彼が亡くなったことを話し、賛美歌がはじまると、ぼくは大声で泣いた。
 その過程は知らなくても、初めて死を前にして、簡単に逝ってしまうことが悔しかった。
 この施設で生活した七年あまりの中で、何人かが逝ってしまった。

 弟のように思っていたSボンは、うたの一小節の最後に「プー」と言うと、小さな身体を揺らしながら顔を紅くして大笑いしてくれた。硬直が強くて、下くちびるを噛んで血まみれになっていた。彼も逝ってしまった。

 そのうちに、誰が亡くなっても感情がそれほど動かなくなった。日常の一コマのように思えた。
 思春期前のある日、部屋の窓からグランドをかこむ並木を眺めながら、淡々と人の死を見送っている自分に気づいた。
 とても怖くなった。

養護学校を卒業し、鈴鹿山脈のふもとの施設で暮らしはじめて、何年か経ったころだった。

 その午後、施設で亡くなった人の葬儀が終わり、建物の裏の誰からも死角になった場所へ行き、田植えの風景をぼんやりと見ていた。        

 急に悔しさと虚しさの入り混じった気持ちがこみ上げてきた。
 こんなに近くに住んでいるのに、目の前で田植えをしている人は彼の死を知らない。
 地域ってなんだろうか。社会ってなんだろうか。そんなことを考えた。

 大人の施設では、やりきれない事実を目の当たりにした。
 誰かが亡くなり、そのあとに誰かが生活をはじめる。
 最初は、毎週のように家族が面会に来る。一年ほど経つと、間隔が二~三か月に一回ほどになる。どんどんと時間の経過につれ、まったく顔を見せなくなってしまう。

 二か所の大人の施設を経験したけれど、その人が亡くなっても、ほとんどの家族は迎えに来ない。それどころか、施設での葬儀にも参列しないところが大方だった。

 とくに、社会基盤の整っていない地域では、介護を担っていた家族が生活を維持できなくなったときに「生きるための選択」としての施設を全否定するつもりはない。
 
 でも、でも、家族から、地域から、社会から、忘れられた存在として死を迎えることがあっていいのだろうか。本人の選んだ道ではないはずなのに。

 青い山脈と田植えの風景をぼくは忘れない。

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