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暮らしと仕事(改訂版)

 無理をして話そうとしなくてもいいのに、壁のほうに向いてウトウトとしていればいいというのに、息がつまりかけても、いつものようにぼくは世間話に花を咲かせるふりに努めていた。

 サポート(介護)がうまくいかなかったり、価値観が違っていたり、ぼくの地雷を踏んだり(たとえば、知的障害の人に上から目線で接したり…)、そんなことでいちいち「出禁だ!」なんて断っていたら、毎日の生活が成り立たなくなってしまう。

 ぼくの場合だと、最短で二時間、日中や泊まりのサポートとなると八時間~十時間を超える。
 長時間、いっしょに過ごすとなると、重要さを増すのが価値観ではないだろうか。
ここ二~三年で、若い人たちを中心にして仕事に対する意識が一気に変わったような気がする。
 いわゆる、仕事とプライベートの線引きをハッキリさせる考えかたが目立つようになった。

 十年ほど前にサポーター(ヘルパーさん)として活躍していたKくんは、ぼくがベッドの上でオマルを差しこんでキバっていると、添い寝スタイルで足を押さえてくれているうちに、熟睡する夜もあった。
 おおらかな雰囲気がただよっていた。
 サポーターさんによっては、恋愛相談に乗ったり、家族関係の悩みを聴いたり、深いところまで立ち入った話になったこともあった。
 不思議なもので、打ち明けることで別にアドバイスなんてしなくても、サポーターさん自身の気持ちの整理がついていくようで、まっすぐに聴く姿勢を崩さないかぎりは、自然と納得顔になるのだった。

 ぼく自身も「わが家に守秘義務はないから、家族団欒で、彼女との語らいのひとときに、バカ話の数々をエッセンスとして役立ててくれたらええでぇ」と、けっこう本気で頼んでいた。もちろん、「わが家は例外やしなぁ」の念押しは忘れなかったけれど。

 障害者のカッコよくない暮らしぶりを、すこしでも多くの一人ひとりに伝えたかったし、誰もが持っているはずのひたむきさを「障害」というカテゴリーにばかり強調されているようで、マスメディアなどの取り上げかたに窮屈さを感じてしまっていた。
だから、酔っぱらってお漏らしをしたり、書類の整理が悪すぎて探しものに追われたり、どちらかといえば情けない話をしてほしかった。
 ぼくだけでは、伝える口が一つしかない。
障害者のカッコよくない暮らしぶりや、誰もが持っているはずの内面の「弱さ」を共感してもらえる健常者がひとりでも増えれば、もっと身近で顔の見える間柄が生まれていくのではないだろうか、そんなふうに思っていた。

 サポーターさんに対しても、感情的になりすぎた場面もあったけれど、ぼく自身のモノサシで治してほしいことや許せないことは素直に話すようにしていた。
 素直に話すこと(怒ってしまうこともあった)で、より深い関わりになれたことも多かった。

 仕事とプライベートの線引きをするサポーターさんが増えて、関係づくりが難しくなった気がする。
 ぼく自身が「上から目線」になってしまうシチュエーションが、とても目立つようになった。
 「されたらかなん」ことは、他人にやりたいはずはない。
 なのに、偉そうに鼻を鳴らして説教していたり、心の中で「こんなこともでけへんのか」と蔑んでいたりしていることに気づき、苛立ちとやりきれなさで羽交い絞めにされるようになった。

 一方で、うまくサポートができなくても、何度でも穏やかに説明しながら、「誰でも苦手と得意はあるでぇ。気ぃ落とさんと、そのうちできるわぁ」などと、のんびり気分でおつき合いをつづけられるサポーターさんもいる。
「これ、知らんかったんか!」と驚く場面に遭遇したとしても、「訊くは一瞬の恥、訊かぬは一生の恥やで、たまたまその情報に出逢わんかっただけや。気ぃ落とさんときや」と、イライラせずに冷静に話ができるサポーターさんもいる。

 どこが違うのか、よく考えてみた。
「上から目線」になってしまうサポーターさんは、総じて「仕事モード」でわが家を訪れる。
 「仕事モード」の割合の高いサポーターさんの中にも、違和感なく接することができる人もいる。
 サポート技術の質にこだわり、ストイックに現実と向きあう。
目の前の障害のある人の生活の可能性を広げるために、情報や経験を活かそうとする。

 「〇〇さんの力になりたい」と「〇〇さんの力になってあげたい」とでは、ニュアンスがかなり違うのではないだろうか。
 どちらもサポートする側の善意から生まれた感情なので、すごく微妙で言葉になりにくい。
 前者はサポーター自身の相手に対する率直な想いであり、後者は周囲からの評価を求めたり、支援することによって現れてしまう上下関係だったりが作用するのではないかと、書き進めるつもりだった。

 ところが、ぼくの頭は混乱し始めた。
誰だって優越感に浸るのは快感だし、周囲の評価が気になるのは自然なことではないだろうか。
 「障害」にかこつけて、支援者を責めるのはぼく自身をタナにあげることになるのではないだろうか。
本当に迷路に入りこんでしまった。
 
 ただ、仕事として捉えて、ぼくのよりよい生活のためにがんばる一人ひとりの考えかたを否定したくはない。
 でも、ちょっとしたミスを目にしたり、手順通りにいかなくてしどろもどろになってしまったりしているところに立ちあうと、心の中で「支援者のくせに…」と、バカにしている自分がいる。
 ぼくは、いつも自分と他者を重ねてしまう。

 仕事とプライベートを弁えて働くのもいい。
いまの世の中の流れだし、そのほうが気持ちをクリアにできるのかもしれない。
 でも、サポートする一人ひとりを「支援者⇔利用者」という一辺倒な図式で、考えるのだけはやめてほしい。
 よほど冷静にその人を百%理解することは不可能だと肝に銘じたうえで、向きあうことのできる菩薩様のようなサポーターさんでなければ、仕事だからこそ相手をコントロールしたくなってしまうのではないだろうか。
 
 とはいえ、知的障害などがあって、その場での判断をサポーターさんがしなければならない状況に直面するときもあるだろう。
 つきあいの長い間柄であれば、時系列といった奥行きの延長線上に応えを直感できるかもしれない。
 また、初々しさの残る間柄であっても、おたがいのフィーリングで乗りきれるかもしれない。
 
 ただ、いろいろなサポーターさんの話を聴くと、人間同士だから相性もあって、難しい局面にぶつかることもあるという。
 そうなると、事業所のコンセプトが働く一人ひとりにどれだけ浸透できているかが、カギになるのではないだろうか。
 「コンセプトかぁ~」とつぶやく自分がいる。
 縛りすぎると、一人ひとりとの色あいが薄れてしまう。
 かといって、「コンセプト」であるかぎりはゆるやかではあっても、なにかのモノサシは必要になる。むずかしい。ムズカシイ。難しい。 

 それでも、ぼくにとってわが家にいるときは生活そのものだし、社会的に見ればサポーターさんにとって、ここで過ごす時間は仕事そのものに他ならない。
 いずれにしても、だれにとっても利用者である前に「わたし」であることに代わりはないし、サポーターさんも支援者であるまえに「わたし」であってほしい。
 
 これからも、ぼくがトイレをキバっているときに、熟睡してしまうようなホッコリしたサポーターさんと出逢うことができるだろうか。
 しんどそうな顔をしていたら、洗濯機もかけずに、掃除もしないで、終了時間がくるまで、ベッドのそばに腰かけて、週刊誌を読みふけってくれるサポーターさんと出逢うことができるのだろうか。

 一時期、もし介護ロボットが実用化されたら、そのほうが「気楽だよな」なんて考えるときがあった。
わが家ではベテランの心優しきおじさんサポーターさんも、仕事と離れておつき合いしたいと、話していたことがあった。
 でも、制度と折りあいながら、息子であったり、サポーターであったり、友人であったり、一人ひとりと、その一人ひとりとの間でも、おたがいの気分によって、体調によって、もちろん、TPOによって、ごちゃまぜなネットワークの支えあいで、ごり押しをせずに相手の気持ちを確かめながら、ぼくなりに模索していきたいと思う。

 同じ家の中で、暮らす人と働く人が時間を共有する。
おカネは湧いて出るものではない。
ある程度の枠組み(制約)の中で、おたがいが心地よく過ごすために何が必要か、何を削ればよいのか、なかなか正解は出現しそうにない。
 ただ、ぼくは一人の時間を有効につくりながら、これからも働く人と暮らす道を歩きつづけるのではないだろうか。

 あらためて読み返してみて、個人的な考えに過ぎないことに気づいてしまった。
 サポート現場の暮らす人と働く人の関係性に、答えはないのかもしれない。

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