ひとさし指
ぼくのひとさし指から役目がひとつ消え、新たにひとつ加わった。
おそらく十代前半のころから、ぼくには誰にも教えたくない秘技を持ちあわせていた。
ズバリ、それは「目クソ」を取ることだった。
四十代半ばまではひとりで寝返りを打てていたから、目がしらや目じりに黄色がかった物体が鬱陶しさを運んでくると、両足の蹴る力を上体のひねりに連動させて横むきになり、さっそく作業に取りかかった。
普段は思うように動かない腕も、横むきになると片方は上半身でロックされる。
左右とも手首から先はある程度の自由が利くので、ゆっくりと目に近づけてからひとさし指をまっすぐに伸ばし、鼻の側面にそわせながらエモノの方へすべらせる。
頃合いの位置へたどり着いたら、指先の腹をエモノにあてて、適度に力を伝えながら、耳側か頬側にあわてることなくヒジから下を動かすと、キレイに目もとから黄色い物体が取り払われる。
小心者のぼくは、誰かに見つかると「危ないから」と止められそうで、消灯後や朝早く目が覚めたときにこっそりと取りかかることにしていた。
やりきれないことに、コロナウイルスはぼくのひそやかな楽しみを奪ってしまった。
目の粘膜からも感染すると知ってしまったから。
ごっつい目クソが取れた瞬間の、首筋から頬にかけてひろがる紅潮感。
あの身震いとは、もう再会できないのだろうか。
ついでに、もうひとつの秘技を思い出してしまった。
こちらは端的に表現することが難しい。
伸びすぎたツメが割れたとき、よく畳で引っかけて悲鳴をあげることがあった。
そんなとき、近くにツメキリの達人がいなければ、引っついた肉を傷つけてしまったり、よけいに剥がして流血騒ぎになったりする。
根もと近くまで深く裂けていなければ、目クソを取るのと同じ要領で横むきになり、今度は根気よくツメと肉の隙間に舌先を差しこんでいく。
すこしづつ、すこしづつ。
こうすれば、不思議なことに痛くもなければ、血も出なかった。
もちろん、傷にもならなかった。
こちらは、コロナウイルスの影響で大きな「痛手(ダジャレではない)」を負ってしまった。
ツメが伸びていないか、いつも気にかけていないといけなくなった。
そういえば、ひとさし指は両手とも他の四本と違って、ツメの先まで肉がくっついている。
こどものころ、ひとさし指を「おかあさん指」と呼んでいた。
コロナ禍は、おかあさんに余分な気遣いを負わせてしまった。
もちろん、指を口の中へ入れることなどできないから。
「捨てる神あれば、拾う神あり」。
ぼくのひとさし指にとって、災いばかりではなかった。
訪問入浴でのこと。
浴槽へ移動してからは、会話は最低限に抑えている。
このときだけはマスクを外しているから。
スタッフさんたちは、分厚いマスクをしているけれど。
お湯の温度や体の洗い方などについての問いかけには、左右の手でオッケーマークをつくって応えるようにしていて、還暦を過ぎたオッサンなのに、なぜか「オチャメ」に見えると、明るい空気を演出している。
くわえて、ひとさし指の活躍するシーンを発見したのだった。
お湯に浸かっているとき、首から上が沈まないように、担架は上体がやや起きた状態になっている。
湯船でもときどきぼくは硬直するので、すこしづつずり落ちていく。
そんなとき、どちらかの手を耳のそばにやって、ひとさし指を頭の方へまっすぐに立てる。
声を出さなくても、ひとさし指の活躍でぼくと入浴スタッフは通じあえるシーンが増えたことになる。
noteで活用している電動車いすのレバーを握っている写真でもわかっていただけるように、まちへ出るときもひとさし指はなくてはならない存在だ。
中指から小指までの三本で前後の動きを調整し、ひとさし指と親指で左右をあやつる。
ひとさし指が今日の主役だけれど、電動車いすの操作にかぎらず、小指から親指までがそれぞれの役割を担っている。
いちばん脇役の小指でさえ、サカムケになっただけでも、ずいぶん運転にぎこちなさが生まれる。
何か世の中をオーバーラップさせたくなる。
あらためて、全身の各パーツの役割と不具合が現れたときの心構えをすこしだけ想定しておく必要性を頭のかたすみに置いておきたくなった。
今晩も、友部さんが枕もとで流れて、言葉と想いが寄り添う時間を過ごした。
ひょっとしたら、このマガジン「車いすからベッドへの旅」の百本目の投稿なのかもしれない。
ちゃんと確かめないで書いてしまうのが、ぼくらしいと思う。
そうしているうちに、オーディオとのシンクロニシティが今夜もはじまった。
「大道芸人」。
ぼくは普通にボケていきたい。
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