人生最大級の鮮明な記憶
R15指定などと制限しなければならない世の中になってしまったのだろうか。たぶん、大丈夫だと思うので書きはじめる。
その朝、ぼくは病室のベッドの上で、横になったまま大便をがんばっていた。お尻の下には楕円形のオマルが差しこまれていた。
排せつはデリケートなもので、環境の変化には敏感だ。
特に、ぼくの場合は一人では用を済ませられないので、慣れない人の介助を受けるとなると、その度合いの大きさ、深さは、自力で始末できる健常者とは比べものにならない。
その朝とは、入院から五日目だったと記憶している。
ぼくは右の睾丸に腫瘍が診つかり、検査を受けながら手術を待つ日々を過ごしていた。
施設では毎朝、見事な排便を規則的に続けていて、一日でもあくとお腹が張って仕方がなかった。
あのころ、恋人のいなかったぼくは、生きることに無頓着だった。
男性としてはショッキングな箇所に腫瘍が見つかったこと事体は、淡々と受けとめられた。
けれど、痛みには弱かった。手術の予定日が近づくにつれ、不安は増していき、それにともなって硬直も強くなっていた。
当然、便秘になった。毎日、この世に出現していたものが五日間も、ぼくの体内に居座り続けた。
出るものが出ないのは、とても辛い。
毎食後、オマルを差しこんでもらった。
必死になって、がんばった。顔を真っ赤にして、踏ん張った。
それでも、どうにもならない。しまいには下腹部だけではなく、へその上あたりまで「漬物石」が居座っているかのように思えた。
一方で、担当医や看護師には相談したくはなかった。
まだ二十代だったぼくは、浣腸などに対して強い抵抗感を持っていた。
すこしカタク書いてしまったけれど。平たく言えば「恥ずかしかった」。
いつもオマルを差しこむと、看護師は部屋を出て行った。もちろん、カーテンを閉めて。
思い返してみれば、あのときは、とうとう「来るときが来てしまった」という感じだった。
気の強そうな四十代前半の看護師が、カーテンから顔を覗かせて訊ねた。
「なかなか出ないですか?ずっと出てないようだし、お手伝いしましょうか?」
ぼくは応えた。
「大丈夫です。一人でがんばります」
すぐに、看護師は部屋を出て行った。
五分ほどして、同じ看護師が今度はいきなりカーテンの中へ入ってきた。
そして、ぼくに伝えた。
「摘便します!」
観念せざるを得ない口調だった。
それでも、ぼくは「自分でがんばります」と言おうとしたけれど、それからあとは手早い動きで言葉を挟む間もなかった。
寝た状態のぼくには確認できなかったが、おそらく滑りをよくするために、指先にはたっぷりとワセリンが塗られていただろう。
ぼくの両膝の裏に片腕を深く入れ、足を浮かせたかと思うと、反対の手の指は肛門の入口の便の壁を突き破った。
その瞬間、背骨から頭にかけて経験したことのない快感が駆け抜けた。
息が止まりそうになったけれど、強い衝撃で声は出なかった。
悟られなくて幸いだった。
入院中、ぼくは息苦しかった。
あの快感の意味は直感できたし、絶対に触れてはならないものだと深く思った。
もう一方で、あの感覚を求めてしまう体があった。
なにか、みぞおちあたりから突き上げるような衝動に駆られた。
息苦しさのわけは、ぼくの意識の中でこの二つのベクトルの衝突が起こるからだった。
言葉に出すはずはなかった。入院中だけではなく、その後のいくつかの人との交わりの場面でも、けっして求めることはなかった。
気心しれた友人たちには、冗談まじりに話すときもあった。
けれど、あのとき摘便をした看護師もぼくの思いを察するはずもなかっただろう。
友人たちにしても、その会話のかたわらには酒があったり、真実味をぼかしたりしてきたので、すぐに消去される記憶になっているだろう。
還暦を過ぎたいまでも、あの瞬間のあの快感は最上位級の鮮明な記憶として留まりつづけている。
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