本心
この間、片づけてあるはずの場所に「流せるおしりふき」が見当たらなかった。
急を要する状況ではなかったので、範囲をひろげて探すとすぐに見つかった。
また別の日、衣装ケースからタオルを出すと、半乾きのままで片づけられていた。
ぼくは、理詰めに間違いなく物事を進めるのが苦手というか、その段取りや手順に力を使い果たして、効果が現れるまでに疲れてしまう。
「流せるおしりふき」のときでも、大した労力を使う必要はなかった。
それぞれの衣装ケースや棚の引き出しに付箋を貼っていれば、スムーズに見つけられただろう。
ぼくはサポーター(ヘルパー)さんにお願いするだけで、自分が手間をかけるわけではない。
とても簡単に思えることかもしれない。
でも、効率的でひとつのミスも起こらない空間で過ごすことが、とても息苦しく感じられるのだ。
自分だけなら絶対しないことに取り組んでいるサポーターさんの背中を眺めていると、誰のための暮らしなんだろう?と自問自答したくなるのだ。
たしかに、もともと健常者と比べれば、日常生活に何倍もの時間を費やさなければならないぼくにとって、効率は重要視しなければならないポイントのひとつかもしれない。
それでも、ぼくは施設での集団生活ではなく、ひとり暮らしを選んできた。
個人の生活スタイルに、理屈の通らないところがあってもいいのではないだろうか。息が抜ける部分が大切ではないだろうか。
もちろん、集団生活であっても…。
さて、「流せるおしりふき」が見つからなかったとき、探してくれていたサポーターさんによぶんなことを言ってしまった。
「サポーターのXくんなぁ、アイツええかげんやさかい、ちゃんと言うたところに仕舞いよらへんにゃ…」
大人げないなぁと思う。キッチリしないようにしているのは、ぼくのはずなのに…。
「タオルの半乾き」も、いちいち確認しないようにしているのは、ぼくのはずなのに…。
だけど、グチはストレスの発散なのかもしれない。息抜きというか、ガス抜きになるのかもしれない。
ヘルパーという仕事は、単純な日常のくり返しとのおつき合いにほかならない。
食事にしても、トイレにしても、お風呂にしても…、生きるための基本的な行いであっても、誰もが当たり前のこととして、物ごころついた頃から一人でこなしている。
そこに劇的な変化は起こりにくい。
なかなかモチベーションの保ちにくい中で、上から目線にもならず、下から目線にもならない人たちがいる。
きっかけは、日常の一コマの表情の変化だったり、自分と同じようなズルさを持ちあわせていることに対しての共感だったり、それぞれに違っている。
ぼくは上から目線になったり、下から目線になったりしながら暮らしているけれど。
そんな自分をタナに上げて、たいがいははるかに年下の一人ひとりと喜怒哀楽にゆれながら、残り少なくなったかもしれない大切な時間を共有させてもらっている。
還暦を過ぎたいま、一人ひとりや世の中をうたがうことから始める人たちとは、適当に仲良いフリを通していきたい。
すべての人と誠実に向きあうことはむずかしい。
ささいなミスを笑い飛ばせる人、ささいなミスに目くじらを立てて誰かを責めない人、ささいなミスに心から向きあえる人、そんな人たちとあっけらかんとしながら、たまには涙ぐみながら、ぼくは伝えあっていきたい。
いまのぼくのいちばんの本心だ。