つながり続ける善意のバトン#74
心温まる記事がありました。
難病で視力を失った和歌山市職員の男性が、10年以上にわたり地元の小学生に助けられながらバス通勤を続けているという記事です。
ある日、男性が停留所で待っていると「バスが来ましたよ」という少女の声がして「乗り口は右です。階段があります」と少女は言い、座席に案内してくれたそうです。
それ以来、顔も名前もわからない少女が毎日助けてくれ、その少女が卒業したら今度はその少女の妹が、そして妹の友達が男性を助け、気づけば10年以上にわたって善意のバトンが受け継がれていたようです。
自分が小学生で同じような場面に出会ったらこの子たちのように行動できるだろうか。もしかしたら、一度はできるかもしれない。しかし、何年も続けることはできたのだろうかと思いました。
もう1つ、記事を読み直して視力を失った男性側について気づいたことがありました。
この男性は毎日小学生と通勤できることに幸せを感じ、失明という境遇に絶望していないということです。
もちろん、失明という事実を受け入れるのには相当な時間がかかったと思います。ですが、男性は小学生と出会えたことを心から喜んでいます。
失明してから6年以上たっているようですが、仕事を続けていられる要因に間違いなく少女たちの存在があるでしょう。
善意のバトンという表現がありますが、善意とはとても難しいものです。こちらが良かれと思っても相手にとっては余計なお世話ということがあります。善意を拒否されるくらいなら、何もしない方が良いと考えることは自体は合理的だと思います。
ではもし、善意で行ったことに見返りがあったとしたらどうでしょうか。
昔あるマンガに宝くじで億万長者になった女性がいました。その女性はそのお金を「いい人」に配りたいと考えます。このマンガの主人公は売れない探偵をしており、仕事の一環としてこの女性の願いを叶えようとします。
探偵と女性はいい人を善意で行動をする人と定義し、良い行動をしている人を見つけたらお金を配るという行動をし続けました。(金額は確か100万円だったと思います)
探偵と女性はいい人にお金を配れることをとても喜んでいました。女性の潜在的な願いには「いい人は恵まれてほしい」という思いがありました。
しかし、世間は2人の願いとは裏腹に進みます。その町全体が善意で埋め尽くされてしまったのです。
コンビニの前でたむろしている不良が、買い物を済ませたおばあちゃんに「荷物重いだろ。持ってやるよ。」とニヤニヤしながら近づきます。またある場所では母親が子どもに「ポイ捨てするな!100万もらえないでしょ!」と頭を叩く。こんな光景がありました。
その光景を見て探偵と女性はお金配りをいったん辞めることになりました。
つまり善意とは何か見返りがあると意識するだけで、得体のしれない気持ち悪さが透けて見えてしまうものだと私は思います。
記事の中の少女たちは、見返りなんて一切求めていないでしょう。そして男性も子どもたちの善意をきちんと受け止めている。このようなすがすがしさが私の心を打ったのだと思いました。
真っ暗な夜空だからで星たちがきらめくように、どんよりした世界に温かな善意があるからいいのではないでしょうか。
お読みいただきありがとうございました。