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自己紹介

※めちゃくちゃ長いです…😂
長文イヤな方は読むの辞めておかれたほうがいいかもしれません。

AKIHIRO  SHIBATA

1971 年1月12日。
僕は新日鉄八幡製鉄所で知られる、福岡県北九州市の八幡に4人兄弟の長男として生まれました。
自営業者(実家は寿司割烹店)の家に生まれた僕は、物心をついた時から将来自分は勤め人になりたくない、と。
自分も父のように、自らが本当にやりたいことをやりたいと思うようになっていきました。
『一度の人生、自分が思ったことを思いっきりやればいいじゃないか!』
日頃から口癖のように言っていた父の影響もあり、今思えば僕の人生は本当にその言葉の通りになっていった。
いや、それは〝必然の出来事〟として身に起こり、その後、様々なことを体験していくこととなりました。

高校2年生の時のこと。
ある時、遠足で行った先の遊園地にあったレーシングカートという乗りもの。
友人たちと腕試しで競い合ったカートは、強烈な刺激をもたらす、これまでには感じたことのないものでした。
「俺はこれをやりたい!将来はレーサーになりたい!!」
その後、心の底から湧き上がった熱意は、両親を説得の末、高校生にも関わらず80万円近くもするレーシングカート一式を与えてもらうという現実を創り出しました。
〝上手くは説明は出来ない、なんの根拠もないけど自分はやれる〟
あの時に感じた説明不能ながらも、みなぎるように湧き上がってくる不思議な感覚。
その後の僕はレースデビューを果たすと、それ程時間もかからずに直ぐに九州チャンピオンとなり、3年後には全日本選手権へと参戦するようになりました。
ただ、カートレースといえども、レースというものは自身の技量にプラスしてチームの体制、資金力という外的要素が大きく勝敗に関係してくるもの。
23歳の時、勝負を賭けたシーズンはいろいろなことが嚙み合わず、結局は何も大した成果を残すことが出来ずに敗退。
レースを続けるには再び高額なお金を用意しなくてはならないことを無理だと悟った僕は、苦渋の決断の末、レースを辞めること、レーシングドライバーになるという夢に終止符を打ちました。

もう1度ここから再スタート。

気持ちを切り替え、仕切り直しをした後は大型トラックに乗ったり、その後は福岡から鹿児島に移住しては天然温泉水を販売する会社で働いたりしました。
それは27歳を迎えた時のことでした。
ある時から突然、『俺は東京に行って一旗あげたい!このまま九州でこじんまりと生きていくのはイヤだ!』
そう思うようになるとその後は短期間で身支度を固め、手カバンに僅かな荷物、手に8万円を握りしめて寝台特急へと駆け込みました。

上京後の半年間はキャバクラのボーイ、パチンコ店の店員など、寮付きの仕事を選んでは必死になって東京生活の土台を作ろうと奮闘。
誰一人として知り合いもいない巨大な街、東京。

ただ、そのような中でも当時パチンコ店で出会った女の子が僕に対してはとても好意的で、僕は孤独の中でもその子が側にいるおかげで、徐々に東京での日常を楽しめるようになっていきました。  

ある日のこと。

彼女が連れて行ってくれた、超おしゃれな雰囲気のレストラン。
アメリカンとウエスタンがミックスされ、更にモダンが融合した高級感あふれる店内にはピカピカに磨き上げられたハーレーが7台展示されていました。
店のスタッフたちはウエスタンハットにフリンジの付いたベスト、皮のパンツにウエスタンブーツ。
完全にここはアメリカ西部の再現、馬の代わりの鉄馬(ハーレーダビッドソン)というものに、僕は一瞬でその店の虜となってしまいました。
ふと、彼女にこう言いました。
「この店めちゃくちゃカッコいいね!?
俺、ココで働きたいわー、求人とか募集してないかな…」
そのような会話をし、途中トイレに行った時のことでした。
【スタッフ急募!詳しくはホールマネージャーまで】
洗面台の壁にそのような張り紙があったものを目にした僕は、こんな偶然ってあるのか?
このチャンスを逃す訳にはいかない…、そう思うとトイレを出るなりすぐに店の中で1番偉そうにしていた店員に声をかけました。
「自分、ココ凄く気に入りました!ココで働きたいんです。雇って欲しいんですが!』
それから2週間ほどの後のこと。
念願叶い、僕はその店でホールスタッフとして働くこととなりました。

ある日のこと。
「今日はオーナーが来るから、いつもよりより一層ハーレーを磨き上げておいてくれ!」
店長からそのような指示を受けてから数時間後のことでした。
店のオーナーと思われる恰幅のいい、少しコワモテ風の大柄の男性が店内に入ってきました。
ちょっと見た目的にも何か普通じゃない、近寄りがたいオーラを放っている男性はスタッフたちに手を挙げて挨拶をすると、僕のほうに向かって歩いてきてこう言いました。
「君の履歴書を見させてもらったよ。君は元レーサーだったんだって?」
「そうなんですか?はい、車の運転には自信があります!」
そう答えた途端、男性は急に笑顔を見せては、
『よし、じゃあ決まりだ!明日から君は俺の車の運転手だ、頼んだぞ!!』
と、僕の気持ちや意向は関係なく一方的にモノゴトを決めて立ち去っていきました。

翌日から僕は強制的に、オーナー(会長)の専用車を運転する仕事に就くこととなりました。
会長と呼ばれる人物は話を聞けば聞く程、中身を知れば知る程にとんでもない大物の実業家(正確にはフィクサー)だということが分かりました。
内容は、会長を専用車で様々な場所に迎えに行ったり、送り迎えをすることがメインの仕事。

来る日も来る日も会長に同席する客人は、その誰もがとんでもない大物と呼ばれるような人たちばかり。
テレビでも顔を見たことのある政治家、〇〇大臣、〇〇官僚、超一流企業会長、上場企業社長、俗にいう反社のトップなど、様々…。
最初は慣れないことばかりで緊張の連続でしたが、会長とは四六時中、休みもほとんど無いくらいにいつも一緒にいたこともあり、いつからかは半分友人のような、最後の方は自分の息子のような感覚に近い感じにまで可愛がってもらえるようになっていきました。

ある時のことでした。
会長が突然、いつもには無い表情と口調で、『どうしたらいいか教えてくれ、お前の意見を聞かせてくれ』と相談を持ち掛けてきました。
話しの内容はこのようなものでした。
会長が運営するレストランは設立以来ずっと赤字続きの状態だということ。
『もういい加減手放せと役員たちがうるさいんだ。
ただ、俺はあの店がとても好きだ。
強い思い入れがある店だ。
出来ればどうにかして残したいが何かいい知恵は無いだろうか?』
そのようなことを言いながら、少し寂しそうな表情を交えて語っている会長を見た時のことでした。
その頃の僕はもう、会長のことを政財界を渡り歩く大物フィクサーとして恐れるような感覚は持ち合わせなくなっており、自分にとってはあらゆることを学ばせてくれる恩師、メンターのように思っていました。

僕は会長にこう言いました。
「会長、実は僕はあの店の秘密を知っているんです。あの店の中身、実態とはこういうものなんです…」
と、その時に自分が知っていた同僚スタッフから聞いていた話しを全て打ち明けました。
そこには会長が想像もしていなかったとんでもない事実がありました。
店長を始めとするスタッフのほとんどが不正の嵐という程のやりたい放題、し放題。
僕に情報をくれていたバイトの子はまだしも、トップたちにやる気が無い状態ではそうなってしまうのは当然だと正直に告げました。
僕から話しを聞き、その事実を知った会長は顔を真っ赤にして怒り狂いました。
会長は携帯を取り出すと迷うことなく店に電話をし、電話口に出た店長に向かってこう言いました。
『おい、話しは聞いたぞ。よくも裏切ってくれたな?お前たち今日でクビだ!今すぐ全員荷物をまとめて出ていけ!!』と。

それから数日後のこと。
会長は僕を食事に誘うと、改まって一言、お前に頼みがある、そう言ってきました。
『お前、あの店を立て直してくれんか。
全ての権限を渡す。
必要なものは揃える。
人員も募集する。
俺はお前ならやれると思っている。
頼む、俺の強い思い入れがあるあの店をもう一度蘇らせてくれ』
会長の頼みはこのようなものでした。
その後の僕は一旦、運転手の仕事から外れ、レストランの再建、会長の期待に応えるべく、そのいばらの道とも思える内容を引き受けることとなっていきました。

店の再建を引き受けてから2年半が経過した時のこと。
あれは忘れもしない、連日満席が続いた12月末の営業最終日に集計したレジの総売り上げは、最初に渡された状態の月商を300%超えする驚くべきものでした。
年末最後にその報告を受けた会長は、電話の受話器越しから嬉しそうに、よくここまでやってくれたなぁと感無量的に感謝の言葉を述べ、その成果を何度も褒めてくれました。

※この部分の成功物語、その時どうやってそのようなことが可能となったかはコチラの記事に記してます。

【東京に出てきてから3年余り。福岡から出てくる時には、いつか必ず俺は東京で一旗上げてやるぞ!】
そのように願った思いも、これで本当に現実的なものになってきたなぁと思った矢先のことでした。

ある時のこと、突然、会長が僕に向かって驚くようなことを言いました。
『なぁ、アキ坊…。俺がしばらくの間、外国に行くと言ったらお前、その間待てるか?』
と。
(※ここの部分だけはどうしてもブログには書けない事情があるので割愛させてもらいます)

ある日の突然の告知から、その後はどうすることも出来ずに別れなければならない状態となった会長との縁。
『アキ坊』
僕のことをいつからかそのように呼び、僕自身も会長のことを本当に大切な人、なんでもを教えてくれるメンターのような人、最後の方はもう1人のお父さんのような存在にまで思っていたような、そんな人との突然の別れ…。
もういい。
いくらどう足掻いても無理なものは無理なら仕方が無い…
福岡に戻ろう…。 

その後、福岡に戻った僕は夢半ばで潰えた傷を少しでも早く消そうと、そこからは自分なりに楽しいこと、嬉しくなるようなことを無理やり的に探していきました。
そのような中でのこと。
ある時突然、以前縁のあった人から電話がかかって来ては、今何やってるんだ?
これからはインターネットの時代。
もしよかったらウチの商品を卸すからそれをネットで販売してみないか?という話しが舞い込んできました。
インターネットって何?
今からはネットでものを買う時代?
最初はその人の言っていることがよく分からなかったのですが、いいから言う通りにやってみな!?
という言葉に釣られ、僕はその後近くの家電量販店でホームページビルダーを買い、それでホームページなるものを作っていきました。
その話が来たのは33歳の時の春先のこと。
そうやって始めた水のインターネット販売のサイドビジネスはその後、その人が言った通りに大バズりし、ネット通販開始から11ヶ月後のこと。
34歳の2月には有限会社を設立して独立。
直ぐにネット通販の売上は月商1000万を超え、その後、会社設立3年後からは車の買取業、輸出業にも手を広げていくようになりました。
その後、会社設立6年後には飲食事業にも参入。
佐賀県鳥栖市に1号店を構えると、その店を起点として全国に向けてフランチャイズ展開をすべく、社運を賭けて勝負に出ました。

しかし、今思えばですが、当時の自分の判断というのはいろいろな意味で未熟なところが多過ぎた…。
その時には様々な思ってもいないような出来事、悪い要因が重なり、気がついた時には時すでに遅し、途中からは資金繰りが火の車…。
本当にあと僅か、あと少しでフランチャイズの加盟金も手に入ってここからだ!という直前で資金ショートを起こし、その後は事業を清算せざる得ない状態へとなってしまいました。
それまでに手にしてきた全てを失い、整理し、手元には万が一の際、逃亡の際には必要となるだろうと見込んで残しておいた消費者金融から借りた僅かなお金があるのみ。
途方に暮れ、母の家に逃げ込んでうなだれている僕にある時母がこう言いました。

『アンタね、アンタなんかたかだか会社を1つ潰しただけやないの? そんなの、この前の東北の地震の津波で家族も兄弟も、友達も、仕事も、会社も、家も、全てを一瞬で無くした人たちに比べたら大したことでは無いじゃないの? 一度いい機会だから今回はそれを自分の目で見て来なさいよ!』と。

2日後、僕は母と一緒に仙台に飛び、その後はレンタカーを借りて4日をかけて震災で被害にあった地域をくまなく周っていきました。
本当に想像を絶する程の光景…。
嘘だろ?と思うほどの津波の高さの跡や、被害を受けた地域の整備をしている状況を目の当たりにした僕は、それらを見ることによって自分の考えが徐々に変わっていきました。
現地では飲食店で出会った隣席のご夫婦から、その時のリアルな話し、身内や親戚を亡くされたこと。
当時のことを思い出しながら語ったことで、途中は奥さんが涙で言葉に詰まり、黙り込んでしまう場面もありました。
いやぁ…、本当にいろいろなことを考えさせられる旅だった。
でも、行って良かった。
その後、福岡に戻った頃の僕の気持ちの中には、それまでにあった、あれほどにまで強く抱え込んでいた苦悩は随分と軽減されていました。
東北から戻り、そこから2週間程が経過した頃のこと。
「俺、バリ島行ってくるわ! 今度の再挑戦は日本ではなくて大好きなバリ島でやってみたいんよ!」
東北の旅によってすっかりと気持ちが整理出来た僕は、突然そのような話しを聞かされて困惑する母を説得しては、その後は就職のやり取りをした観光会社を目指して日本を発ちました。

※バリ島での生活も面白いことがたくさんありました。
バリではその後、自分の人生に大きな影響を与える人物との出会いがあり、その人との出会い、関わりが今の僕を作ってくれている大きな要因にもなっていて、本当に人との出会い、ご縁というものには感謝するばかり。
こちらのバリの話しも、今後機会があればお話ししようと思っています。

バリに渡って人生の再チャレンジを楽しんでいた時のこと。
ある時、日本にいる家族に大変なことが起こり、突然の緊急帰国をしなければならないことに…。
その後は、本来であれば直ぐにバリに戻るはずだったのに、そうは出来ずに再び日本(福岡)での生活を強いられることとなりました。
どうあがいても、結局はなるようにしかならないのかな…
複雑な心境な中、そう思い、最終的にはその現実を受け入れました。

ある時、母と食事をしていた時のことでした。
何気ない感じで母が、『私、いつか夢なんだけどね、最後は小さな店でいいから自分の店(飲食店)を待ちたいのよね!』と。
そう言い、いつかそういうことが叶ったらいいのになぁ…と言っていた時からひと月ほどが経過した頃、それは現実として思ってもいなかったカタチで母の元に起こりました。

『お母さん、ずっと前にいつかは自分の店を持ちたいって言いよったけど、まだそれはやりたいの?』
その頃、自分たちの自営業の仕事が上手くいっていた妹たちがある時突然、そうであるなら私たち今は資金を出せるから店やったらいいんじゃない?と言い出しました。
ただその話しの内容には、その店にはお兄ちゃん(僕)が経営面でサポートをして欲しいということ。
流石に母1人での運営は大変だと思うので、そこに僕が協力するなら直ぐにでもやろうという話しになりました。
店舗の規模の差はあっても、以前のレストランで大成功をしたことと同じことをすれば、まずいけるんじゃないかな?
以前、成功を身をもって体験し、更にはその後も徹底的にホスピタリティーの分野を勉強した僕の手法は母の店でも素晴らしい結果を出すこととなりました。

僅か1年余りで福岡市南区の某所で連日満席、超人気店となった、母がこれまでずっと長年に渡ってやりたかったという鉄板焼き店。
しかしその余りの盛況ぶり、連日ハードな業務を強いられた母はある時から体調を崩し始めては、最後は両手が腱鞘炎になり、どうやってもカウンターに立つことは出来ない状態へとなっていきました。
のちにその名店は熱烈な常連さんたちに惜しまれながらも閉店するカタチとなりました。

バリ島での人生再チャレンジのリベンジは断念。
更にはここまで上手くいっていた鉄板焼き店も最後になってこういうカタチで閉店することに…。
いつもそうだけどあとちょっと、ここを抜ければあとは絶対に上手くいくだろうという寸前でダメになってしまう自分のこれまでを振り返ると、そこには一体何が足りないのだろうか…。
あともう少し何が必要なのだろうか…。
その時の僕にはそのようなことを毎日毎日、過ぎ行く時間の中で永遠といっていい程に考えるようになってしまっていました。

そのような中でのことでした。
バリで出会った、当時僕が心から大切に思っていた方がバイクの事故で亡くなったという悲報が突然耳に入ってくることに。
どうしてなんだ…。
何もかも、大切に思うものの全てが自分の元から離れていく。
もう、こんな人生イヤになってきた…。
そのような、もう夢も希望もない状態。
人生に対してのやる気、エネルギーが自分の中から抜け出てしまうような感覚に陥った時のことでした。
ある時から元々持っていたアトピー性皮膚炎が一気に全身に広がり、それは1カ月もしないうちに全身血だらけ、真っ赤かで人前には出られない程のとんでもない状態へと変貌…。
四六時中、寝ても覚めても襲ってくる止まらない痒みに気力も体力も奪われ、それによってどんどん衰弱していく身体と精神…。
ベッドのシーツも洋服も血だらけ、床は皮膚の落屑だらけ。
おまけにその頃には、まともに口も開かず食事も喉を通らなくなっていた僕は、いつからかもうこんな生活疲れた…。
いい加減ここから抜け出したいと思うようになり、もう終わりにしよう、そう思うようになっていきました。
今日決行しよう。
数日間何も食べておらず、気力も体力も限界に達していた僕は、その日が来たことを自分の中に悟りました。
よし、本当にもう終わりにするぞ。
以前キャンプに行った際に持っていたロープを探し出しては、それをロフトの柱に結び付けて輪っかを作り、その中に首を入れること30分…。

足元には灯油缶を置き、灯油缶を自らの足で蹴るだけで望みどおりになるというのに、僕は30分近くの間どうやってもその灯油缶を蹴ることが出来ませんでした。
最後はどうしてこんな簡単なことが出来ないんだという悔しさに涙が溢れてきたけれども、それでも結局どうやってもそれは出来ない。
こんなに惨めな思いをし、こんなに苦しい日々を過ごしているというのに、それでも自らの意思で死ぬことも出来ないなんて…。
僕は輪っかから首を抜くと、灯油缶から降り、床にしゃがみこんでは泣き崩れました。
その日の夜、しばらくの間連絡していなかった母に、実は今日こういうことがあったんだというメールを入れました。
それを知った母は驚きと同時にめちゃくちゃに怒りながら車を飛ばして家にやってきました。
その夜はたくさんのことを話し合いました。
そして、もう一度やり直そう。
ゆっくりでいいからちゃんと身体を治して、もう一度普通でいいから、それだけでいいから、それを目標にやって行こうと約束をしました。

その後、約半年の期間のリハビリを経て、僕はなんとか普通の人並みに生活出来る身体へと戻り、それを機に少しずつその時に出来ること、今やれる仕事を始めていきました。
ようやく身体も完全と呼べる程にまで回復した頃のこと。
そこからは少し手っ取り早く稼げる長距離のトラックに乗り、全国を周るような生活を始めていきました。

その後、そのような生活も4年目に入ったくらいの時のこと。
ある時にひょんなことから出会うこととなった今のパートナー、ENAさんという女性。
付き合って間もない頃のこと。
ある時夜に電話がかかってくると突然、『私、今、神様という存在と繋がってしまったの…』
という、にわかに信じられないような、半分頭おかしいんじゃないかというような驚くべきことを言い始めました。

※この部分、ENAさんが高次元意識体に繋がっていくお話しはめちゃくちゃ面白い内容ですので、いつか機会があればお話ししたいと思います。

そこからは神様と名乗る高次元意識体、アシュタールと名乗る別の高次元意識体、それらの存在たちからダイレクトにメッセージをもらうこと
(一般的にはこれを口寄せと言います)
ENAさんは、その後福岡に凄い人がいるという噂が広がり、一時はちょっとしたスピリチュアル界の有名人となっていきました。

そこからは僕もこれまで6年間、彼女が繋がる存在たちから様々なことを教えてもらいましたが、正直言って、その存在たちが教えてくれる内容は、まさにそれこそが真実なんだろうと、絶対的にそう思わせる話しばかり。

ただ、こちらの中身は語り始めればいつまで経っても終わらない程の大ボリューム、
深い、ふか〜い話しとなりますので、今後はこちらのブログの中で少しずつ中身を綴っていこうと思っています。

と、まぁ、こんな感じなのですが…、

いやぁ…、
最初は出来るだけ簡単にと考えていたけど、結果的にこんなに長いものに…

いかがでしたでしょうか?

タイトルにもあったとおり、
〝波乱万丈の人生 しかしそれは自らがそう望んだもの〟
とはまさにと言う僕の人生ですが、、、

ここまで読んでいただき、
このような僕にもしも何かを感じ、あぁ、この人面白いなー!とか、
繋がりたいなーとかありましたら、その時は是非ご連絡をいただけたらと思います。

最後、ここまでを文字カウンターで測ったら、
8938文字??
いやぁ、、、マジでちょっと長すぎたな…。


長文にも関わらず最後までご拝読いただきありがとうございました😊

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