思考なのか予見なのか…
【思考なのか予見なのか…】
昭和60年代後半から70年辺り
僕が生まれた頃の混沌とした時代を
とても羨ましく感じていた。
安保闘争、浅間山事件、学生運動
よど号ハイジャック事件、ベトナム戦争
三島由紀夫自決、大阪万博太陽の塔の岡本太郎
この頃の学生も大人達も
自国、日本の未来を案じ
世界の動向を見ながら
その思想の良し悪しは別にしても
より良い未来を模索しながら
『怒涛の熱情の中』で生きていた様に思う。
高度成長期から、人々の底なしの欲は
どんどんと現実化され、それと共に人々は
考えることを放棄し、人との繋がりを希薄にし
100年をまたずして既に飽和状態になっている。
世の中は、再び混沌の
時代へと移行し始めている。
それは、私自身が強く望んだ未来。
しかし、その混沌とした時代の中で
予想外だった最大の盲点は、
人々の社会に対する『無関心』である。
それはまるで、目の前にナイフを
突きつけられているのに
『どうぞ好きにして下さい』と
言わんばかりに意に返さない
無気力さであったり
自分の生活さえ守れれば
この世界がどうあってもよい
…と云う個人主義の成れの果てが
今と云う現代に思えてならないのです。
そんな、無関心、無気力、無感動、無慈悲の
無い無い尽くしの現代の中で、
一人声を荒げている自分が、
とても奇異に思えて来る。
阪神大震災にしても
東日本大地震にしても
悲しいかな、人間は危機に見舞われて
封じ込められていた感覚を呼び覚ます。
現代と云うこの混沌とした時代の中で
多くの人が、ようやく目覚め始めると
思いきや、それにはまだまだ遠く感じる。
とは言え、一部の人達は私同様に、
この世界のこの時代のこの日本の
危機的未来を危惧して、借り物でない
自身の言葉で語り出す人が
目立って来ているのも間違いのない事実。
そうした人達が、注目される様になったのも
緩やかではあるが、世の人々が目覚め始めてる
兆候であると思えるし、そう思いたい。
まだまだ有名人や有識者の声ばかりが目立つが
庶民レベルで熱い声があちこちで上げられるには
後、もう少し時間を要するのかもしれない。
文/ソウルフラワーカムイ