『キリエのうた』と「贖罪」の問題
先週末に岩井俊二監督の『キリエのうた』を観てきた。そしてその勢いで、翌日に久しぶり(10年以上ぶり)に『スワロウテイル』を観た。そしてこの二つの映画の間にある四半世紀という長い時間に横たわっているものについて考えた。noteの加藤貞顕CEOに「先に結論を書かないと〈今どき〉の読者は続きを読まない」と力説されたので書くけれど、考えたこうして2作品を並べて考えたとき見えてきた僕の「結論」は、90年代のサブカルチャーの「態度」、つまり「自意識」の問題に敏感で拘泥し続けることが繊細さの証であり、そのことを認め合う共同性をにアイデンティティを置く、という選択はどうしようもなく間違っていたのではないか、ということだ。
「平坦な戦場」と「社会の分断」
そう考える理由は二つある。第一の理由は、いまさら指摘するようなことではない。単にそれは高度成長からバブル経済に至るこの国の「戦後」の経済的安定に依存しながらも、それを直視しないという非政治性に立脚したもので、今振り返るとさすがに安易すぎるということだ。そしてこちらが重要なのだけど第二に、こうして自意識の問題のレベルで考えている限り、今日の社会の分断のような問題は乗り越えられないのではないか、ということだ。
その免疫のなさのために年老いた「サブカル」たち(の一部)が次第に自分探し的に「政治性」を消費し、いまやSNSで敵対勢力を(ときにはアンフェアな引用や情報操作、人格攻撃を交えながら)こっぴどく貶めることで共同性を確認する、といういわゆる「ダメなSNS上の症例」としての「政治化」が常態化して久しい。そしてこの「他虐的な政治化」へたどり着くような回路が、既に90年代後半の時点で開かれてしまっているのではないか、と僕は思うのだ。
「政治化」しつつ「他虐」の快楽にハマらないために
誤解がないように一応断ってくが、と付記してもどうしても「他人を貶めて自分を賢く見せたい人」は都合よく切り貼りして自分の頭でも批判できるものに改変するのだろうが、僕は「声を上げる」こと自体は絶対に批判しない。しかしそこで「敵」に対しては何をやっても構わない、と考える人々は間違っていると強く思う。ハマスのテロに対しての報復として、どれだけの民間人を殺戮しても構わないと考えるイスラエルが間違っているのと同じように。こうした疑問まで、声を上げる行為を抑圧する行為だと断罪されるのなら、もはやこの社会にものを書く自由はない、と考えるしかない。批評は、誰かを貶めることを通じたセルフブランディングではないのだが……
岩井俊二を「通して」考える
また、これから書く問題は岩井俊二やその作品がそうだというのではなく、この二つの映画を重ね合わせて考えていることで見えてくるある文化圏の精神史の問題だ(後半に、この映画の「批評」を展開する)。ここについても誤解しないでほしいが、作品を受け止めることよりもせいぜい他の人が褒めているものを褒めて「つながる」快楽を手にすることのほうを重視する読者の方がいまや多数派だろうから、断っても無駄かもしれない……と思いつつ、こう釘を刺すことで一人でもちゃんと読んでくれたらいいな、と思って記しておく。
さて、本題に入ろう。
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