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「聖地巡礼」的な「まちおこし」について考える

最近、重ための話題が続いたので、そしていま『虎に翼』の総括的なものを準備しているので、今日は少し軽めの話題にしたい。

実は夏期(6−9月)のテレビアニメでは、『負けヒロインが多すぎる』を僕は楽しみに見ていた。この作品も、それなりに考えることは多いと思うのだけれど、今日は作品評ではなくてこの作品から改めて「地方」の問題を考えてみたいと思う。具体的には映画やテレビドラマ、アニメーションといった映像作品の「聖地巡礼」の問題だ。より正確には、この「聖地巡礼」を前提にした「まちおこし」の問題だ。

つい昨日から、今期(秋シーズン)のNHK朝の連続テレビ小説『おむすび』がはじまった。舞台は糸島で、ここは近年発展が著しい福岡市に隣接しながらも、その豊かな自然によって別荘地として注目の集まる土地だ。まだ2回しか放送されていないのであくまでその時点の印象なのだけれど、僕はちょっとこの先が「心配」になっている。それは、悪い意味で朝ドラの現代劇の悪しき「パターン」にハマってしまいそうな予感に満ちているからだ。

朝ドラの現代劇には明確な失敗パターンがある。それは現代劇としてのリアリティと、高齢視聴者層の「こんな孫がほしい」的な欲望に媚びた「孫ボルノ」的な側面、そして「地方創生」的なまちおこしの側面をミックスした結果として、ほとんど作品が崩壊してしまうというパターンだ。

要するにこのタイプの「朝ドラのヒロイン」は地方の保守層から嫌われない、しかしそれなりに現代的な夢を抱いて東京や大阪に出て、結婚し、しかし結局は大好きな「地元」に戻って大好きなおじいちゃんやばあちゃん(大体その地方の誇る一次産業や伝統芸能に携わっている)と一緒に暮らす。そしてしっかり子どもも生み、育てる……といったおおよそリアリティのない、ほとんど集票のためのバラマキ政策のような内容になってしまう。このあたりに、今のこの国の現役世代(の特に女性)軽視や、この層に負担を押し付けて高齢世代が昭和後期の「あの頃」は良かったと思い出に浸りながら心安らかに老いていく一方で、国全体がゆるやかに沈没していく構造が結果的に露呈しているように僕は思うのだけれど、今回の本題はそこでもない。

今回の本題はこの「まちおこし」の部分だ。ダメな朝ドラはだいたいヒロインの家族がその土地の有名な一次産業や伝統芸能にコミットしている。ヒロインもそんなおじいちゃんとおばあちゃんが大好きで、何割かの確率でUターンして祖父母をサポートする。他にも「これでもか」とばかりに画面の随所に地元の名産や名所がアピールされる。そしてこれをされると、視聴者は観光協会のプロモーションビデオを見せられているようで、心底ゲンナリする。少し人間の心理というものを考えてみればわかると思うのだけれど、ここには本末転倒な構造があると思う。要するに、最初に魅力的な表現があって、その舞台となっている街に興味をもつ……というのが自然な流れだと思うのだけれど、この種の朝ドラでは最初から地元の名物や名所や伝統芸能が無批判に称揚され、物語の展開もそのためにかなり不自然になるために、一瞬で気持ちが萎えるのだ。

その点、僕は『負けヒロインが多すぎる』はよく出来ていたと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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