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映画『ドライブ・マイ・カー』と村上春樹についての試論


一昨日に僕があたらしく立ち上げた雑誌『モノノメ』の2号目が刷り上がってきた。ここから、クラウドファンディングや先行予約分から順次発送していくことになる。いつも、この瞬間には大きな達成感があるが、何か審判を受けるような緊張感もある。僕はこの号は、しっかりと創刊号の反省を生かしてその分クオリティを引き上げることをやり切った、とても手応えのある号だったのだけど、それが読者にどう評価されるかはまだ分からない。

この号の制作にあたって、僕はある記事についてこれはかなり深いところまでたどり着けたのではないかという手応えと、決定的な敗北感を同時に得ている。それは友人の佐渡島庸平の仲介で実現した『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督との対談だ。ここで僕と濱口監督は、劇映画の今日(の情報環境における)表現の課題、ショット主義の限界とその応用、演技の文体と声の作用など、たくさんのことを議論している。初対面と思えないほど充実した議論が交わされていて、我ながら「してやったり」と思ったのだが屈辱的なことにこの今号一押しの記事は僕の企画ではなく、佐渡島庸平の持ち込みなのだ。ありがとう、サディ。そして彼こそが編集者としての僕の終生のライバルなのだと、改めて思った。

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さて、ここでは濱口監督の対話でも取り上げた村上春樹の問題について簡単に論じてみたいと思う。僕は1年前から村上春樹について「も扱う」著作を準備中で、そこで僕が考えていたことに濱口監督の村上春樹に対するアプローチは大きな参考になると感じたからだ。同書の村上春樹論は昨年既に書き上げているのだが、この対話で濱口監督と議論したことを反映させ、結論部に少し書き足そうかと思っている。

準備中の村上春樹論では、いくつかの視点を複合させながら論じているのだが、ここで取り分け扱いたいのはそのセクシュアリティの問題だ。村上春樹の小説はその女性描写からフェミニズム的な視点から強い批判を受けていた。僕が11年前に出版した『リトル・ピープルの時代』での村上批判も、これらの批判を援用している。村上春樹の小説に登場する女性たちは、(全共闘的的な経験のトラウマから)「やれやれ」と社会に対してデタッチメントする男性主人公が、再び(オウム真理教的な現代における悪に対抗するために)社会にコミットするための回路やチケットとしての役割を与えられている。そこで、彼女たちが男性主人公に与える力は、男性としての承認として描かれる。妻や恋人から、あるいは娘から男性として、父として承認されること。これがイデオロギーを用いたコミットメントを拒否し、一度は社会からデタッチメントした村上春樹が再びコミットメントを回復するための条件なのだ。ここに村上の女性蔑視を発見するのは容易いが、同時にこの男性性への執着に僕は村上春樹の想像力の限界を見る。妻を、娘を所有して男として、父として承認を得ることで成立するナルシシズムがあってはじめて、イデオロギーからも資本主義からも「自立」することができるのだというその思考に、端的に述べれば安易さを感じたのだ。それは、自分を無条件に承認する母性を要求し続ける幼児性の言い換えでしかなく、「コミットメント」の内実も自分を絶対に否定しない存在に甘えた「ごっこ」に過ぎないというのが僕の判断だ。

以前、僕は同世代の作家が自身の引きこもり体験に取材した小説を書いたとき(滝本竜彦『NHKにようこそ!』)、これを批判したことがある。この小説の主人公が世界に意味などない、生きる意味が見いだせない、確実に意味のあることがしたい、しかしそれが分からないと考えて引きこもり、そして自分より弱い少女(心の病を抱えている孤独な少女)が目の前に現れて救われる、というこの物語が示してるのは、そもそも「自分より弱い少女を救うこと(所有すること)」を至高の価値と考えるような、安っぽい父権願望を抜け出せない貧しい想像力こそが世界をつまらなく見せ、引きこもらせているということだ。

こうして考えてみると、戦後日本人男性に支配的な「矮小な不正」を村上は体現する存在なのだとつくづく思う。
さて、その村上だが近年その「矮小な不正」の延命に縛られた世界観が、(成功しているとは言い難いが)内破されつつあるというのが、僕の診断だ。それは言い換えれば、村上春樹が今求めているのは「直子」なのか、「鼠」なのかという問題だ(これについては濱口監督とも話したことだ。)

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