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空気によってハラスメントが黙認されるのではなく、ハラスメントが黙認されることで空気が生まれるという話

今日はちょっと考えさせられる出来事の話からしたい。さすがに生々しいので、特定できないようにぼかして書くが、少し前にある会議の場面で、30代の男性会社員(かなりの高学歴エリート)が、ハラスメントの被害者に対して「今この件に触れるとあなたがますますその業界で孤立し、ますますイジメられる。だから黙っておくべきだ」といった内容のことを相手が露骨に嫌がっていて、何度も止めているのに延々と話し続ける……という場面に出くわした。

これは完全にアウトで、僕はこの人とはこのままではもう仕事はできないなと思っているのだけれど、本人はその行為を指摘されると、表面的には大人なので謝罪しながらも「この場を収めるために頭を下げるが、自分は間違っていない」と随所でアピールを続けていて、ああ、これはもう根本のところでダメなんだなと思った。恐るべきことに、まったく彼には「悪気がない」と思われるからだ。

その人は100%善意から、「長い物に巻かれる」ことを勧めている。ただ、それを被害者本人がいる場面で口にすることが二次加害に当たることが想像できないし、さらに自分のそういうニヒリズムこそがハラスメントに対する消極的な支持を与え、次の犠牲者を生むということが理解できないのだ。

ああ、こうやってジャニーズも松本人志も「仕方がないこと」としてギョーカイの「普通の人」が「黙認」してきたのだし、いまのいままで表沙汰にならないできたのだなと痛感した瞬間だった。人間のモラルが無自覚に、そして結果的に停止するメカニズムを目の当たりにした気がした。

そして僕はなぜ、この真面目で優秀な人がこの程度のことを理解できないのか考えた。

結論から述べると、これは共同体の「空気」の問題だ。ただ、誤解してはいけない。共同体内の空気によってハラスメントが黙認されるのではなく、ハラスメントが黙認されることで空気が生まれ、その空気を共有するメンバーの間に共同体が生まれるのだ。

僕はこの問題について考えるとき、まず以前から彼がいわゆるネットの「冷笑系」左派批判にある程度のシンパシーを語っていたのを思い出した。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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