もうJTC(的なもの)には戻れない僕たちが「うっかり騙されない」ために必要なこと
先日、ある企業リーダー向けのリベラル・アーツ研修のようなものに講師として参加したのだけど、そこでちょっとした議論になった。どういう議論かと言うと、それはプラットフォーム資本主義下の共同体についての議論だ。
参加していたのはいわゆる「JTC」と呼ばれがちな昭和の大企業の幹部職員たちで、僕よりも10歳くらい年上の人が多かったと思う。そしてこういう研修に前のめりに参加するような人たちなので、当然「JTC的なもの」に開き直って「朝礼も飲み会も社内行事も必要」とかは全然思っていなくて、新しい世界にどう適応していけばいいかを手探りで考えている……といったスタンスの人が多かったと思う。
もう少し詳しく言えば具体的に僕たちが話したのは会社共同体からの「自立」についての議論だ。ジョブ型ではなくメンバーシップ型の雇用を採用する「JTC」的な日本企業の多くは、「勤め人」の多くなった1970年代以降は特に個人と国家の間にある中間的な共同体として機能してきた。しかし、その閉鎖性やそれに守られた集団主義的で、体育会的で、男尊女卑的な文化は批判の的にされて久しい。個人の多様な生き方を促進する面でも、人口減少局面における人材シェアリングの面からも、正社員のジョブ型雇用や副業/複業の推進や、フリーランスや自営業への「回帰」もある程度は不可避だと考えられる……といった認識はその場にいた誰もが共有していたと思う。
しかし同時に研修に参加した人の多くがそのような「自立」に耐えられる人はどれくらいいるのだろうか、と口にしていたのも事実だ。JTC的な、昭和的な「会社員」じゃない生き方は、まるで市場という荒野に強くたくましく生きていくサバイバリスト的な生き方で、ほとんどの人間はそれに耐えられないのではないか……というわけだ。そしてこのとき僕は思った。僕の考える「自立」と彼らが考える「自立」は随分と違うものなのだ。
結論から述べると、僕が考える「自立」はもっと手軽なもので、意識と能力が高い人間がバリバリやるものではなく、どちらかといえば青年期の僕のように怠惰で、特に強く社会に対して与えたい影響もなく、楽しく暮らせていればそれでいいと考えがちな人間に向いているものだ。要するに僕は弱い人間が、適当な仕事(複数)を回しながら食べていける可能性の拡大こそが社会の堅牢性だと思っていて、戦後中流的なもの(JTC的な「職場」)に「所属」してメンバーシップによって生活保証されるというモデルは持続できない(もう崩壊している)し、人間の幸福にもあまり望ましくないと思っているのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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