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民藝と電子表現

一昨日は、高山の日下部民藝館でトークショーの司会を務めてきた。同館では毎年この時期に落合陽一の個展を開催している。この2024年も11月4日まで「どちらにしようかな、ヌルの神様の言うとおり:円環・曼荼羅・三巴」と題された展示が行われていて、そのトークショーに呼ばれたのだ。

司会は僕で、登壇者は落合陽一本人に加え、キュレーターの齋藤恵汰、民俗学者の畑中章宏だ。齋藤さんとは初対面で、アーティストとしても活動する彼は長年同世代の落合さんと作品を相互批評し合う関係にあるという。畑中さんは企画時に、僕の方から推薦した。それはこの展示にとって、高山という土地との関係や、その結果として用いられた円空仏というモチーフから話を展開してくれることを期待したからだ。

僕は高山に足を運んだのも、日下部民藝館の落合展を見たのも初めてだったけれど、この展示が端的に言って素晴らしいものだった。

当日のトークショーでも話したのだが、今年の日下部民藝館の落合展は、昨2023年に大阪の中之島美術館で開催された『民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある』展のカウンターパートにあるものだと位置づけることができるだろう。

柳宗悦らの民藝運動の発生から約100年の節目に、それを現在の消費文化に定着した「民藝的なもの」を取り込むかたちで再定義するーーとりあえず、同展のコンセプトはそのようにまとめることができるだろう。併設された売店での、同展の「関連商品」の売上は上々だったと言われるが、そのことは鑑賞者にこの展示のメッセージが「正しく」伝わったことを証明している。つまり同展の再定義した「民藝」は、柳が影響を受けたウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に「結果的に」だが接近しているのだ。

今日の「民藝」は、主に都市部のミドルアッパーによる「ていねいな暮らし」の追求の一環として消費されるものであることは疑いようがない。

バブル経済の時代の「反動」としての無印良品が西武グループの「反乱分子」として発生し、大衆の暮らしの中に定着したこの30年は、その一方で情報社会化の中で消費の欲望の対象がモノからコトへと移行した30年でもあった。この時代の変化の中で、現役世代の中に培われたアースカラーの消費生活への欲望の文字通り「受け皿」として支持されているものが今日の「民藝的なもの」であることは、もはや疑いようはない。

その「軽薄さ」を批判することは簡単なのかもしれないが、前述した通りこれは柳が参照したモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動への「結果的な」接近であると考えることもできるだろう。社会主義者として労働者の生活を「装飾する」ことを主張したモリスに、柳の残した「民藝」という概念は消費社会と結託することで、ミドルアッパーの暮らしを「ていねいに」「装飾」する、資本主義内部の微温的な抵抗運動(商品の一部に留まる運動)として定着することで接近しているのだ。その意味において『民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある』展は100年前の民藝運動と現代(というか、アフターバブル)の「ていねいな暮らし」志向をつなげることで、「民藝」をアーツ・アンド・クラフツ運動「的な」「社会運動」として事後的に読み替えていると言えるのだと思う。

対して、この落合展は結果的にこうした位置付けのカウンターパートとして機能している。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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