フェイクも悪質だが、フェイクを欲望する人間を動員して換金するプラットフォームのほうがより悪質
今日は、年末の企画について打ち合わせをしていたのだけれど、そこで議論になったことについて書いていきたいと思う。それはタイトルにあるように「フェイクも悪質だが、フェイクを欲望する人間を動員して換金するプラットフォームのほうがより悪質」ではないかということだ。
これは内外に通じる傾向だと思うのだけれど、プラットフォーム運営会社の多くは、少なくともユーザーの側ほどフェイクを問題視していない。僕もプラットフォームの経営者や責任者と意見を交換する機会をいただいたことはあるのだけど、大体の場合彼らは被害者を救済することよりも建前的な「表現の自由」を守ることのほうに関心があり、フェイクだけでなくヘイトや詐欺や誹謗中傷で苦しんでいる人たちに向き合うという発想も同様に相対的には希薄なのだと、痛感せざるを得ないケースが多かった。『テラスハウス』事件のようにメディアが責任転嫁的にプラットフォームの管理を暗に批判して責任転嫁を試るようなケースもあるので、なんでもプラットフォームの責任にするなと言いたくなる気持ちはわからなくはないが、現実問題としてSNS系プラットフォームの多くがこれらのグレーゾーンのビジネスの温床になっていることは誰の目にも明らかで、その社会的な追求の矛先が自分たちに向かないための印象操作と理論武装に関心を向けている時点で、お世辞にも誠実な態度とは言えないだろう。彼らが、この種のグレーなビジネスを締め出す(表現そのものは規制しないが、換金できなくする)だけで、状況はかなりマシになるはずで、この点に関してはより厳しく社会からの批判が加えられるべきだと思う。
実際にこの2024年だけを振り返ってみても、EUが規制を強化したりザッガーバーグが議会に呼ばれて絞られたり……といった動きがあったはずで、これは国家がプラットフォームという「怪物」を抑制しはじめたということ以上の意味がある。要するに、SNSを通じて承認欲求を刺激されるとほとんどの人類は抗うことができず、しかもそれが集金や集票に直結するいま、社会のあり方を根底から変えてしまっているというシビアな認識が、世界的に共有されはじめているのだが、その認識が少なくともこの国には足りていないように思う。
そして数年前の僕なら、この状況(プラットフォーム化)に、メディアのレベルでの抵抗で風穴を開けることで大きく緩和できる(遅いインターネット)と考えたけれど、それ「だけ」では足りないことももはや自明だと思う。
たとえば国内メディアの状況をで言えば、ReHacQの台頭はもはや日本の「世間」とはXのタイムラインの潮目のことである、という「現実」が存在していることを証明していると思う。90年代のテレビがそうであったように、いまはXのタイムラインがこの国を一つの大きなムラにしてしまっている。この現実を認めて、乗っかること(そしてハックすること)がいま、一番有効な戦略として機能する。それは、初期インターネットの都市的な、独立した島が乱立してつながっているけれど島ごとの文脈は共有されていない状態が、いちばん刺激的だったと考える僕のような人間には悲しいことだけれど、この現実を否定してもまったく意味はないだろう。
では、どうするか。
僕が考えているのはまずカネの問題だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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