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『きみの色』と「動機」の問題

楽しみにしていた映画『きみの色』をさっそく観てきた。明日はニッポン放送の吉田尚記アナウンサーの司会で、この映画についての座談会も配信する予定なのだが、その前に論点整理をしておこうと思う。

結論から述べてしまうと、この映画について僕は「総合的には」あまり関心しなかった。より正確に言うならこの作品については眼を見張るほど素晴らしい部分と、さすがにこれはないのではないか……と思う部分とがはっきりと分かれている。監督の山田尚子のポテンシャルは十二分に示されていると思うが、そろそろこの作家にも「ポテンシャルを示す」のではなく決定的な作品をつくりあげて欲しいと感じた、というのが正直な感想だ。

では、『きみの色』はどこで成功して、どこで失敗しているのか。本当は逆がいいと思うのだけど、説明の飲み込みやすさを考慮して、先に欠点からあげていこうと思う。問題は端的にいえば、この映画がかかげるテーマ(それは作者たちの社会的なメッセージではなく、この表現を用いることで示したい世界観、人間観のようなものだ)と、物語の展開が齟齬をきたしている、ということに尽きる。

要するに失敗しているのは明らかに脚本面だ。本作は、女子校に通うヒロインが憧れていた(しかし突然学校をやめてしまった)同級生と、彼女のアルバイト先で偶然知り合った少年の3人でロックバンドを組む、という物語だ。

3人はそれぞれ悩みを抱えている。ヒロイン(トツ子)は自分の「色」が見えない(自分「らしさ」がわからない)ことに、彼女が憧れるきみは学校をやめたことを育ての親である祖母に話せていないことに、彼女たちの和に加わるルイは音楽活動のことを母に隠していることにそれぞれ悩んでいる。そして、バンド活動の中で3人はそれぞれの悩みの突破口を見つけるーーというのが、おおまかな展開だ。

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