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【対談】中川大地×遠藤雅伸「日本ゲームよ、逆襲せよ『ゼビウス』から『ポケモンGO』への歴史を超えて」(後編)

好評発売中の、評論家・編集者の中川大地さんによる大著『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』。その刊行を記念し2017年1月27日に下北沢B&Bで行われた、中川さんとゲームクリエイター・大学教授の遠藤雅伸さんの対談の様子をお届けしています。後編では、人類学者・思想家の中沢新一さんも飛び入り参加し、「拡張現実の時代」におけるゲームと人々の関わりについて語りました。(構成:籔和馬、中野慧)
※本記事の前編はこちら

プレステが変えたゲームと街の風景

中川 1990年代後半にプレステショックがあって、ビジネスモデル的にも任天堂の寡占状況が打破されました。この時代のキーワードは「マルチメディア」ですね。ソフトがCD-ROMになり、流通環境が音楽CDと似た流通になったことで、開発元と販売店がリアルタイムでインタラクティブに繋がることが可能になり、クリエイターがより小リスクでいろんなものを作れる時代になりました。流通の簡易化によって、異業種が参入しやすい状態にもなったわけです。

 さらに表現の面でも3Dポリゴンが出てきて高度化し、それまで「子どもの遊び」だったゲームが、映画に近いものになっていった。この時代はやはりゲームの歴史の中で大きな転換点の一つですよね。

遠藤 プレステ登場以前、ソニーは任天堂と一緒にスーパーファミコンに繋げるCD-ROMドライブを開発していましたが、やがてソニーと任天堂のあいだで考え方の違いが出てくるわけです。たとえば、大容量を活かすゲームって子供に向かないわけで、任天堂はそちらの方向には行かない。任天堂はNINTENDO64(以下、64)を出したときに、大容量でムービーを見せていく開発スタイルを切り捨てにいっている。64で任天堂から各ソフトメーカーに最初に提示されたのは、『スーパーマリオ64』(1997年)のようなアクションゲームを作るのに最適なコードだったわけです。それを見て、「ファイナルファンタジー」のチームは「これではRPGが作れない」ということでやめているんです。

中川 単に、プレステと64のどちらが勝ち組になったということではなかったわけですね。

遠藤 まあ、任天堂がわざとそういう人たちを切りにいったというのが実情なんですよ。任天堂はやはりアクションという部分に非常にこだわる。しかしプレステはモーションJPEGというのが入っていて、ムービーを入れ込みやすかった。CD-ROMでの流通になったということで、当時パソコンゲームや音楽を作っていた人たち、そして動画やアニメを作れたりする人もプレステに参入していったわけです。

中川 飯田和敏さんが『アクアノートの休日』のようなメディアアート的作品を作っていたりするのが、プレステの個性になっていった。一方、64はファミコン・スーファミ以来のROMカートリッジのままだったけれども、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』に代表されるような3Dを使ったアクションを追求していった。

遠藤 64は3Dスティックが非常に斬新でしたね。あの感覚はすごく良かった。3Dという点では、プレステの『パラッパラッパー』も素晴らしかった。キャラクター描写に3D技術を使っておきながら表現としてはペラペラという、そのあたりの感覚が日本の素晴らしさなんですよね。他にも、『ダンスダンスレボリューション(DDR)』も素晴らしいゲームでした。ゲーセンでも、上手い人がやっていると一気に見物客が集まっていましたよね。

中川 この頃「ダンス甲子園」などもブームになっていましたが、そっちの人たちとは全然見た目が違う人たちがDDRにハマっていました。見た目はオタクっぽいのに、足だけはダンスがすごかったりとかですね。ちょうどこの時代にプリクラとかも出てきましたし、コンシューマーに対してアーケードは何ができるかということで劇場化、カジュアル化していったという印象です。

初代『ポケモン』から『ポケモンGO』へと受け継がれたもの

中川 ここで忘れてはいけない決定的な作品が、1996年に発売された『ポケットモンスター』ですね。

遠藤 『ポケモン』は、ゲームボーイというハードが死ぬギリギリのところで出てきた。当時『ポケモン』が流行っていて売れているっていうのは、ゲーム関係者は全然知らなかったんですよね。この頃は「テレビでゲームをする=悪いこと」という社会通念があって、特にこの直後とかに「ゲーム脳」論とか出始めるんです。でもゲームボーイだと「テレビじゃないからいいかな」っていうことで、子供が遊ぶことを許してくれる親も多かった。

 それと「持ち運べる」っていうことが全然違うものを生み出していったんですよね。『ポケモン』のおかげで日本のポータブルゲーム機が伸びて、小型化・カラー化などの方向に進化していった。あれがなければポータブルゲームの文化は今頃なくなっていたかもしれません。

中川 今の携帯ゲーム機の市場を生む大きなきっかけになっていますよね。基本的にゲームの市場はファミコンを経験した世代が引っ張ってきたのだけれど、ファミコン世代とは違う新たなゲームの新世代が初めて大きなパワーを発揮した、というのがこの『ポケモン」の時代ですね。僕はこの頃大学生だったのでポケモンは全く視野に入ってなかった。

遠藤 『ポケモン』のおかげで、日本の携帯ゲーム機の市場は伸びていって、ポケットやライト、そしてカラーに進化していったんですよね。

中川 そんな僕たちファミコン世代が知らなかった『ポケモン』を、当時からすでに高評価し、分析されていた中沢新一先生が、実は会場にお越しになっています。ちょっとここでコメントをいただければと思うのですが……(笑)。

中沢 いまお二人のお話を聞いていて、『パラッパラッパー』などを真剣にやっていた自分を恥ずかしく思いました(笑)。しかし、『ゼビウス』が登場してきたときっていうのはものすごい衝撃だったんです。

遠藤 中沢先生が「『ゼビウス』は素晴らしい」って言ってくれたから今のゲーム業界はあるといってもいい(笑)。当時は、「いい大人が子どもの遊びに夢中になって」って呆れられていた時代ですからね。

中沢 僕は最初は『ゼビウス』はまったく知らなくて、「すごいものがあるんだ」って知り合いに喫茶店に連れていかれて、そこで初めてプレイして衝撃を受けたんです。これを何とかして語る、という挑戦をしなければいけないと思った。遠藤さんと初めてお会いしたのは、「ゲームフリークはバグと戯れる」を書いたあとでしたね。

 僕は『ポケモン』のことを、小学館の「コロコロコミック」の編集長だった上野さんに「これを知らないと小学生文化を語れないよ」ということで教えてもらっていました。その頃、ゼミの学生を連れて多摩川に野外レクチャーに行ったんですね。そうしたら川で小学生が網でザリガニを捕まえながら、もう片方の手では器用にゲームボーイを扱っている。彼に何をプレイしているのか聞いたら、『ポケモン』だったんです。『ポケモン』を野外に持ってきて、ザリガニを捕まえながら、同時にニョロモを獲っているわけですよね。現実とゲームを行ったり来たりして楽しむという風景が衝撃でした。そのとき、「これからは現実とバーチャルが交わっていくんだな」ということを確信したんですね。

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