メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(2)(学習説の他説との整合性⑥) | 井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームという現象を、ある複合的な行為と行為の間にある対応関係、メタファーの一種と見做す立場から、快の行為を変換する起点、中心性の強いハブになりうるかという、ゲームの新しい定義の可能性を導き出します。
※メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(1)はこちら
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
第27回 メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(2)(学習説の他説との整合性⑥)
3.8.4 遊び、メタファー、表象
前回、ゲームの快楽経験の範囲が拡張していくことを、言語活動との比喩で述べたが、なぜこのような「言語」と「ゲーム」に類似性をみてとることが可能たりうるのだろうか? 言語の議論と、ゲームの快楽の議論が接続して論じてよいものなのか?
この点について説得的な視点を提示しているのが、セバスチャン・マーティン(2013)による議論だ。[1]
セバスチャンによれば、ベイトソン[2]、ゴンブリッチ[3]、ウォルトン[4]、フィンク[5]といった論者はいずれも、遊び(play)、表象(representation)、メタファー(metaphor)の三つの領域を相互参照しながら、議論をすすめている。遊びについて説明するために、表象の理論を用い、その例示としてメタファーを用いる。または、表象について説明するためにメタファーの理論を用い、遊びを事例として用いるといったことを彼らは行っている。三つの領域は互いが互いを説明するために参照されており、この相互参照は偶然ではないという。
▲表:Bateson,Gombrich,Walton,Finkにおけるメタファー、表象、遊びという語の使用[6]
セバスチャンによれば、三つの領域はパラドックスを持つという点で共通しているという。
表象(representation)のパラドックスの例に挙げられるのは、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」[7]というパイプが描かれた絵画だ。描かれているのは、どう見てもパイプだが、その言葉が示す通り一枚の絵画であってパイプとして使用できるものではない。それは、絵画が、絵画以外のものを表象するという性質によってこうした不思議な事態は起こる。
▲『イメージの裏切り』(1929)
遊び(Play)の例に挙げられるのは、動物の子どもが狩りの遊びとして行う「甘噛み」だ。戯れにカプッと噛み付くのは、確かに「噛んでいる」行為ではあるが、本気で「噛んでいる」わけではない。[8]
これらはいずれも、コミュニケーションについてのコミュニケーション、観察についての観察というような「二次の観察」に属するものであると整理できると述べる。[9]
確かに、遊び、表象、メタファーは、いずれもそれ自体から外側の何かと関係するというメタ的性質を持っている。いずれも「それ自体ではない何かと結びつく」ものという点において共通している。
▲『The Marriage』(2006)
そして、セバスチャンは遊びとゲームを比較的近い意味として使用し[10]、ゲームについての議論が行われる際に「メタファー」と「シミュレーション」がほとんど同義で用いられていると指摘する。
四角と丸で表現されたコンピュータ・ゲームに『The Marriage』(2006)と名付けられたものがある。このゲームでは、結びついている二つの四角をうまく結びつけたまま、長くゲームを続けることが目標になる。うまく操作をしてやらないと、片方の四角が消えたり縮小してしまいゲームオーバーになってしまう。
このゲームの二つの四角は、ゲームのタイトルから察するに、おそらく夫婦のことであり、関係を維持することの難しさは夫婦生活の難しさについての比喩であろう、と多くのプレイヤーは解釈するだろう[11]。このゲームは夫婦生活のメタファー(細かく言うとシネクドキ[12])であり、同時に夫婦生活のシミュレーション的なものであると言うこともできる。
以上は、セバスチャンの議論であるが、メタファー、遊び、表象の三領域が近い性質をもっているという主張は、おおむね受け入れ可能だろう。これらの三領域はいずれも、ある領域を別の領域にマッピング(写像)する性質をもっており、マッピングをする性質ゆえに類似したパラドクスを抱えやすく[13]、時にほぼ同義のものとして用いることも可能になる。
言葉や、絵画は指示対象となるモノや概念との間に対応付け(マッピング)がなされる。ゲームは複合的な行為のプロセスと、別の複合的な行為のプロセスとの間での対応付けをしてみせる。そして、セバスチャンが論じているような文脈でいえば、メタファーは対応付けの仕組みのことだと整理できるのではないだろうか。もっともゲームの場合、『テトリス』のように特定のなにかと対応付けられているとはみなしにくいものも多い。そのため、ゲームはすべてがなにかを示すような仕組みだというわけではない。[14] セバスチャンはゲームのシミュレーション的性質を一つの重要な要素として扱っているが、ゲームの快楽説という文脈で言えば、ここに一つ要素を付け加えられるだろう。シミュレーションに、極めて近いものとして「快楽のエミュレーション(模倣)」という問題系を、改めてこの議論のなかに位置づけてみたい。
3.8.5 快楽経験の拡張バリエーション
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