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#37 「人を受け入れる」と二元性の超越
久しぶり(?)に夕食後、今思っていることを話し合った。
週明けから、暮らしを体験したい人に向けたお試し滞在期間がスタートする。「人を受け入れる」とは、どういうことか考えたい、そんな声があがり話し合いが始まった。
どの部屋を使ってもらうのか。
いつ顔合わせの時間をとるか。
揃えておく必要のあるものは何か。
受け入れにあたり、それぞれのスケジュールはどうなっているか。無理はないか。
受け入れに向けて、今どんな気持ちになっているか。
各々アイデアや気持ちを場に出す。
そういう視点もあるかと思えば、似たようなこと自分も考えているなと思う瞬間もある。
お試し滞在の話しから、受け入れの話しになり、受け入れの話しから最近の暮らしぶりについての話しに移っていった。
家が汚い。
GWのGaia Youth 8期を終えて以来、僕らもそれぞれ随分何かが内的に変わった。その内的な動きを見つめ、熟成を待ち、言語化や行動に落とし込むには、少なからず時間がかかるし、自分にとって心地よいリズム、つまり自分の時間を生活の中で取る必要がある。
そういうわけで、ここ一週間近くは集まって何かするよりは、個々人で何かするバージョンの暮らしとなり、その結果少なからず掃除や片付けが疎かになり、数人はそこが気になりはじめていたのだった。
そんな折に、週末ゲストの訪問があった。
その日はたまたま出勤日だったために、僕はトマトに「掃除しておいてほしいな」と出掛けがけに声をかけた。
ゲストに会うため仕事を早く切り上げ急いで帰宅すると、掃除された気配も片付けされた気配もない。
しかし、ゲストはもう来ていて、しかも昼食を作ってくれている真っ最中であった。
僕の中では人を受け入れるには不適な我が家の状況であり、挨拶もそこそこにせかせかと掃除と片付けをした。
家が汚いけど、トマトに掃除はしておいて欲しいと思っていた人は我が家にもうひとりいた。
トマトはトマトでその日は別にやりたいこともあったし、何よりもそもそも家が散らかっているとは思っていなかった。
最初、話しはお互いの清潔感の度合いや受け入れの姿勢といった価値観の違いを述べることに留まり、ある種のありがちな結末、
「話したけど、価値観が違うね。違い過ぎて一緒には活動できないね。お互い別々に頑張ろう!」に至りそうな雰囲気だった。
一様に「人を受け入れる」と言っても人それぞれ思っていることは、当たり前だが全然違う。
出たところ勝負、気持ちが大事と主張する人もいれば、出来ることは事前にして置いて少しでも快適に過ごしてもらうのがいいと主張する人だっている。
それぞれの当たり前をぶつけ合っていても、話しは平行線のまま。たいていつまらなくなる。
ところで「人を受け入れる」とは、どういうことなのだろうか。
受け止めるとも違う。
もてなすとも違う。
そもそもやろうと思ってできることなのだろうか。受け入れようとか、受け入れまいとか意識的に意図的にできることなのだろうか。
受け入れてしまっていると感じることはある。
好き嫌いに関わらず、その人の存在が自分の一部に溶け込んでいるときそう感じる。親や兄弟姉妹のように、その人なくして自分は語れないとでも言えるような存在の感触。
強い不快感、異物と認識するとき、受け入れられないと感じるときもある。
日々、顔も名前も知らない大勢の人々と出くわす。けれども、彼らの存在がいちいち僕の中に留まるかというと、そうではない。
理解不能というよりは、関心が向かない。関心が向かないとは、その人の存在をないものとすること。だから、受け入れてはいないのかもしれない。
受け入れる。
入ってくると少し近い気がする。
その人に対してこちらから既に注いでいる何かがあって、向こうからこちらにやってくる何かもまた全て入る余地を作っている姿勢。
母親と子どもは受け入れ合っているようにみえる。そこには無差別で一方的な愛情があるのかもしれない。
本稿は、未稿。これ以上は残念ながら、まだ表現できない。
しかし、たった今手元にある問いを読者のみなさんと分かち合えるなら、それでいいかなと思います。
受け入れる。まだわかりません。