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変わりゆく人間、特に若人の未来

(前回の続きになります。)
 前回は理屈っぽくて恐縮だったが、「人間的原点」を再考するために、
人間の類型をAタイプとBタイプに分けてみた。Aタイプは、つかんだ思想や組織にあくまで従っていこうとするタイプで、Bタイプは、あくまで自分で納得いく道を探して行こうとするタイプである。そして、Aタイプからは「悪しき官僚主義」、Bタイプからは「利己主義」が生じる、とした。
 双方とも、僕の経験内に残る人々を念頭に置いている。どちらがいいとか悪いとかいうのではない。それは、彼ら・彼女らの人がらを知ってのことだった。君はそのどっちなんだといえば、明らかにBタイプだが、Aタイプの型にある程度従ったこともある。信じたところを貫く人は、自分は真実の道を行っているんだという自信があるんだろう。そこまではいいんだけど、仲間でない人には無関心というか、高い目線で、かなり冷たく感じる人が多いように思える。そのタイプは話しても生産的にならないし、いやな気分しか残らない。

 「型」を守る意思は基本的な姿勢と言えるのだけれども、相手が他者と見た途端、突き放しにかかる人がいるのは困ったものだ。つまり、あくまで自らの主張を述べて、それを何としても通すのだ。こうなると「悪しき」官僚主義に陥った、と言わざるを得ない。人間として大事なのは、問題の具体的な見え方であり、「人情」に他ならないだろう。その上での「型」なのだ。
 その「型」に不可欠なのは、他にもある。思考力と想像力というものなのだ。想像が身勝手に行われ、思考停止した途端、Aタイプの罠にはまるんだが、その方が楽(安易)だからだろう。一方のBタイプは周りを見る、他を顧みることが、常に求められる。でないと、単なる自己中心主義者に他ならなくなる。
 さてさて、会社や組合等、組織人はすべてAタイプの人たちなんだと短絡するわけではない。Bタイプも短絡的に賛同できない。最需要なのは、エティック・倫理・道徳のあり方如何なのだ、とぼくは見ている。
 その意味で、自分の職種、組織が、エティカルに無関心で、ひいてはそれに反する場合を思ってみる。そうすると、Aであろうと、Bであろうと、そこに敏感な感性や知性を持っているかどうかが問題になるのではないか。人や組織から自由に見える個人作業の人でも、生計の立つ道がなければならないし、ひっきょうこの問題から離れることはできないのである。

東日本大震災の大津波で。この大型船は撤去された。(撮影:和久内明)

 そうした個性や知性は、どうしたら育てられるのであろうか。いつからその形成が始まっているのであろうか。
 幼少時であることに異論はなかろう。もちろん成人してからということもある。だが、この場合は複雑な人生模様があって、かつその中で自分をつかみ直すという、万人に保障された道が備わっているとはなかなか申し辛い。(もちろん、そうしたケースでどうすべきか等考えることは重要である。)
 しかし、幼少時は事情が全く別だ。そこには、当然時代背景があるし、地理的事情もある。その上で、教育面をみれば、当然、家族、家庭を抜きに議論することはできない。また、出会いである。友人、知人、先生たちとの出会いがある。
 「砂漠のような都会」という言葉を思いだしてみる。都会生活の中での出会いの難しさ。都会社会の中での教育の困難さ。こう書いた途端、一瞬絶望的な気持ちになってしまう。それは自分たちの幼少年(少女)期は、暇だったし、自由に遊べたからだ。
 だからと言って、昔に戻ろうとしたいわけではない。昔と比べて今は時間がない、というのは本当だろうけれども、その分、楽になったし、便利になった。また、様々な機会が増えた。問題は、その「様々な機会」なのだと思う。
 機会が増えても、それをどうにもできない人たちが増えてはどうしようもないのである。AもBもない。それ以前の問題だ。しかしAI技術は発展する。SNSは日常的ツールである。この中に入り込むのなら、少しは発展する技術的社会に対応したことになるのであろうか。いや、そうとも言えないのだ。
 今や毎日のように報道されている、「押し込み強盗(殺人まで入る!)」である。実行役など、秘匿性の高いアプリで、SNSなどを通じて結びつく「匿名・流動型犯罪グループ」の末端にあって、大体10代、20代の世代である。思うに、彼ら(ほとんどが男性)には、エティカルを求めようもなく、恐ろしく短絡的視野しかないのである。彼らは熱心にSNSを見たり、参加したりしているのである。
 犯罪をやらかす子でもSNSを使う、という面から見るならば、AだのBだのと人間のタイプを分ける試みなど、笑止かも知れない。好きにする机上の議論で、そんなんじゃダメだと時代遅れの視野狭窄と思われてしまうかも知れない。でも、ちょっと待って!このことは、次号であらためて考えてみるから、頼むね!

 このブログnote は、1か月に1回か2回になります。
 和久内明に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com です。ご連絡ください。 

  【和久内 明 略歴】
・1947年 横浜市中区生まれ。中学は老松中学校(西区)で生徒会長を務めた。現在は、東京都杉並区在住。
・大学は、新しい大学と学問を提唱する梅根悟学長に会って、新設の和光大学に。しかし、まもなく大学は格好の紛争の場となり、党派利害に侵された。大学が目指したものはいとも簡単に否定され、名実なく転落。大学闘争盛んな時代(結局東大闘争)だったが、思慮不足で暴れまわった学生たちは余りに情けない。まことに忍び難い時代であった。
・幸いにも大学祭(僕は委員長)で大いに気の合った先生(大学祭の大学側代表者で、後の東大名誉教授)によって、フッサール現象学の泰斗、新潟大学の喰代驥(ほおじろ はやま)名誉教授(東大卒)に付いた。先生は忘れ難い哲学の恩師で、独自の哲学を模索して追究せよと指導を受ける。
・大学祭といえば(当時は光峰祭と呼んだ)、対立する両派が、人の集まる大学祭の場でゲバルト事態を持ち込もうと、委員長の僕にせっついた。たくさんの学友が広い階段と踊り場に集まっていた。それを言論によって回避することに成功し、駅前で沢山の学生に良かった良かったと、何回も何回も胴上げされたことを忘れることができない。
・知識論を考究し、ケンブリッジ出版の世界哲学論文集に『New Research on the Recognition of Human Beings, Based on the Emergent Domain Theory of Knowledge』が掲載される。他に海外も含め論文多数。
・教育は、小さい頃から大学院まで学校教育に縛られない独自性(ぼくの知識論の実践である)を追求し、東大での物理学博士号獲得(20年以上みた)を始め、問題児まで扱った。
・観世流シテ方の津村禮次郎『中也』、夏樹陽子『M.由起夫』(三島由紀夫を指す)、津村禮次郎・塩高和之(琵琶)・中村明日香(ダンサー 朗読表現)『良寛』の公演戯曲。
・詩集『証の墓標』(日刊現代発行)、詩は数々。海外の詩人会議等に多数出席し、朗読を行う。スペイン語、フランス語、ロシア語訳などがある。
・市民講座『POSS』で、詩文を中心とした英文学、日本文学を講義し、哲学は史的理解を深める講義を行う。
・韓国の国民的歌手チャン・サイクさんは、友人である。何度かお宅(ソウル)にお邪魔した。舞台裏の僕のところに来て「私も詩を歌っているんです。」というのが、第一声だった。
・精鋭社会人の哲学を交えた会『現代知クラブ』を主宰する。
 


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和久内明
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