見出し画像

流行を考える機会を得たので、ちょっと「寄り道」。

  テレビをつけたら、20歳代から80歳代までの人気歌手のランキングを紹介していた。各年代の1位は誰か、という作り方だが、40歳代以下など知らないと思ったから、どれどれと見ることにした。
 案の定知らない名前。聞いたこともないのは、20歳代、30歳代で仕方ないと思うのだが、最後の70歳代、80歳代まで見ていると、どういう風にして、この選考を行ったんだろうと、考えずともすむことが気になってきた。
 自分が20歳代や30歳代だったら、当時の70歳代(明治生まれ)はどうだったろうと思う。しかし詮ないことかもしれない。人によっても、選び方によっても、これが正解というものにたどり着くことはなかろう。だけれども、時代を思ったり、その歌手を頭に浮かべたりと、幾分かは人の頭を休ませる時にはなる。
 20~30年間、テレビ・新聞等の世界から遠ざかっていたぼくなど問題にならないだろう。かと言って関心がないわけではない。というのも、今までは共通の歌というものがあると思われ、その行方が気になるからだ。それぞれの中には、今や未来に残る何かがあるだろうという期待がある。

屋台では数々のマトリョーシカが(ロシアのボルゴグラードの公園で)。

 それにしても、時代の変わり方が変わった、と思う昨今である。「今」、「自分(たち)」を通して、続きうることどもの追究や探求が急速に衰えているのではないか。そう感じられるからだ。どの仕事でもそういう思考を働かせておこなえ、と言っているのではない。自分(たち)の仕事が目指すものや働きというものには目をつぶれ、と言うのでもない。
 しかし、どんな人でも仕事を離れた日常があるではないか。生活があり、持ち場、居場所があるではないか。「続きうることども」の追究や探求から逃れたそれは、いわば教育から外れたことの証にしかならないし、高度に発達した世界をダメにこそすれ、支えることにはならないだろう。
 「続きうる」と記したが、それは大きく言えば「持続可能な社会(世界)」と言われるようになったことと関係している。(もっともそれすら、利用しようという者たちが出るだろうが、今はそれを問わない。)

プーシキン像と(サンクトペテルブルク大学の国際会議に出席の途中で)

 地球環境や将来の世代のために、という積極的方向はすでに前世紀の末には明白に訴えられていた。言うまでもなく、危機に直面しているという、後には引けない自覚があったからだ。今では、2015年に国連総会で採択された「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」が、2030年までの行動目標として掲げられるほどに「切羽詰まっている」。
 ぼくがすぐに思いうかべるのは、「9.11同時多発テロ」だ。この大テロ事件は、新しい世紀、新しいミレニアムが、とても手放しで喜べるものではないということを示した、世界史的な重大事だ。すでに第一次大戦時から、科学、技術の進歩が人類の幸福に寄与するものとは限らない、という事実に直面し、安閑としてはいられなくなった。それから1世紀も隔たっている。
 テロ=犯罪で抑えることや、戦争、平和への認識を、改めて問い直す時代が「今」なのだ。テロと呼ばれうる行為や組織が国家の内と外で、民族、宗教、歴史を負ったものであろうことは、好むと好まざるとに拘わらず、かなり実際的な視点になる。ナショナリズム同様、自由と平等という、西欧式理解一辺倒で済むものではなくなったと思う。非常につかみにくいし、流動的だし、大国の干渉等も考慮しなければなるまい。
 だが一般的には、簡単に善悪2原論で世界中の多くの人は理解するし、情報番組もそれだと作りやすいだろう。その途中で抑圧や利権を公平に判断することはとっても難しいことだ。けれども、そのことを探求せずに理解することなど、とても不可能だと思わずにはいられない。

世紀のバイオリニスト、ダヴィド・オイストラフの部屋。(モスクワのグリンカ博物館で)

 そうした難しさもあっても、さしあたり流行には関係がないよ、と思うのが幸せというもの(笑い)。それなら、あまりに飛躍と思われるであろう今回の話、成り行きで、一言述べておきたい(ハハハと笑ってください)。
 例えばバッハ。クラシック音楽でいうところの、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年~1750年)である。市民のためのオペラやオラトリオを書いたヘンデル(1685年~1759年)とは対照的に、メンデルスゾーン(1809年~1847年)の「発見」までほぼ忘れられていたし、チェロのパブロ・カザルス(1876年~1973年)の無伴奏チェロソナタで従来の世間の認識を一気に変え、メンゲルベルク(1871年~1951年)の指揮がレコードになって、マタイ受難曲の偉大さが分かったという歴史があるようだ。
 つまり、宗教(ここではキリスト教)、時代、地域等抜きにはできないものの、その限りを越えた何かが注目され、今につながり愛されることがある、ということなのである。

蔵王で高山植物を!

 それでようやく歌謡音楽の人気の話に戻ることができた!ホッとした気分だ。そうそう、歌謡曲も流行りすたりがあるが、中には頑丈に守り伝えられたものがあったり、復活したりしたものがある。とはいっても、たかが70年やそこらで大きなことは言えない。では、童謡や唱歌、日本歌曲ならどうだろう。
 滝廉太郎(1879年~1903年)の「」や「荒城の月」を知らない人はいないだろう。それが伝わらない時代が来ないとは言えない現代だが、単に昔のものを捨ててかえりみないということであれば、決して褒められたものではあるまい。
 若い世代と言っても、かなり昔の話だが、当時早稲田の大学にいて、大学院進学が決まっていた若者がこう言っていた。「私より2年後に入った学生ならまだいいんですが、3年後になると全く話が通じないんですよ。」と。多少はあるにしても、3年違えばという言葉に驚いた。
 考えて見れば、ぼくがうっかり甘かったと思う。確かに、車や遠出や異性やグループサウンズに夢中になる若者や、資金なく学校にいけない若者がいたけれども、学生運動なるものが、派手に取り上げられ、体験者が社会変革の熱意をすっかり無くしたような時代と、それ以前が同じであるはずがない。
 それはそうだとしても、例えば「ジュリアナ東京」(1991年~1994年)。ボディコンギャルという語も躍ったなぁ、しかしその狂乱ぶりはどうだったろう。敗戦(1945年)から半世紀も立たずしてこのザマだ、と思ってガクゼンとした。戦後、何があったんだと思ったものだった。
 だから、若い世代が夢中になっている歌が、どう受け継がれていくのか、無関心ではいられないのだ。ご意見を聞かせてください。

上の写真と同じ蔵王で、高山植物を撮る!

 ぼくの好きな歌手をランダムに上げてみよう。ぼくより上の男世代だと、藤山一郎、伊藤久男、近江敏郎、春日八郎、三浦晄一、三橋美智也、ディックミネ、東海林太郎、田端義夫、灰田勝彦・・、あっという間に10人。まだまだだが、皆さんはどれだけご存知?
 女性なら何といっても、淡谷のり子、二葉あき子、渡辺はま子、山口淑子(李香蘭)、大津美子、小唄勝太郎、市丸、高村三枝子、菅原都々子、「三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみ)、島倉千代子・・、と優にある。半数位は、ご存知ではないですか。
 歌詞のことも無視できない。時代と言うか、例えば「男尊女卑」や軍国主義を抜きにできない歌が数々あるからだが、このことには、稿を改めて述べるしかないと思っている。悪しからずお許しあれ!


 和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com までご連絡ください。お待ちしています!



 

サポートは本当に有り難く!そのお心に励まされ、次の活動への大きなエネルギーになります!